【GoTo書店!!わたしの一冊】第37回『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』鈴木 忠平 著/角田 龍平
個の覚醒描いた成長譚
締め切り直前になって本稿を書き始めている。しかし、不思議と焦りはない。悠然とキーボードを叩きながら、薄笑いすら浮かべている。本書を読んでからというもの、行動の指針は全て「落合博満ならどうする?」。
中日ドラゴンズの指揮官だった落合の番記者をしていた著者は、夕刻の東京駅で目撃した奇妙な出来事を本書で明かしている。その日、落合はグリーン車を予約した新幹線が今にも発車しようとしているのに、ホームへと続く階段を駆けることなく悠然と歩いていたそうだ。発車を告げるベルが鳴り響き、「まもなく、扉が閉まります」とアナウンスが流れても、同伴していた著者に「俺は走らねえよ」と薄笑いを浮かべていたという。
落合と著者がホームに辿り着くと、時すでに遅し。新幹線の扉は閉まっていた。それでも、薄笑いを浮かべ続ける落合。すると、まるで落合を待ってましたとばかりに、新幹線の扉が再び開いた。落合は可笑しそうにいった。「たまたまだけど、よかったな」。
本書は、2003年の秋の朝に著者が落合邸を訪ねる場面から始まる。当時の著者は、上司からいわれるがまま仕事をこなすだけのボンクラ記者。この日もデスクにいわれたことを落合に伝える伝書鳩のような役回りだった。「落合さんが中日の監督になるという話を聞きました。それを書かせていただきます。今日はその仁義を切りにきました」。
落合は伝令を聞き終わらないうちに、「〇〇か?」とデスクの名をいい当てるや、「〇〇に言っとけ。恥かくぞってな」「それでもいいなら書け。書いて恥かけよってな」とだけいうと、愛車で走り去った。落合の新監督就任会見が開かれたのは、その4日後だった。
「開幕投手は川崎、お前でいくから」。2004年の正月、落合は川崎憲次郎に架電して、そう告げた。ヤクルトスワローズのエースだった川崎は、FA権を行使して4年総額8億円という大型契約で中日へ移籍したが、右肩の故障で3年間1軍登板がなかった。
3カ月後の開幕戦。川崎は奮闘むなしく2回表で5点を失いノックアウトされるが、チームは5点差をひっくり返して勝利する。半年後、セリーグを制した落合は、新聞紙面で川崎を開幕投手に抜擢した理由を語った。「このチームは生まれ変わらなきゃいけなかった。ああいう選手の背中をみせる必要があったんだ。川崎は3年間、もがき苦しんできたんだろ。そういう投手が投げる姿をみて、選手たちは思うところがあったんじゃないか。あの1勝がなければ、その後もないんだ」。優勝から一夜明け、落合は川崎に戦力外通告をする。
本書は、落合の不可解な言動を真に理解しようと努めた選手と著者が、8年かけて集団でなく個としてプロフェッショナリズムに覚醒する成長譚である。落合を巡る謎も次々と解明されていく。もっとも、発車間近の新幹線に乗り遅れようとも走ろうとしなかった理由は分からず終いだ。本稿の執筆に思いのほか手こずり、時計の針は午前3時を指している。やはり落合は走るべきではなかったか。
(鈴木忠平著、文藝春秋刊、2090円税込)
選者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平
同欄の執筆者は、濱口桂一郎さん、角田龍平さん、大矢博子さん、スペシャルゲスト――の持ち回りです。