【本棚を探索】第9回『西暦一○○○年 グローバリゼーションの誕生』ヴァレリー・ハンセン著/濱口 桂一郎
お香も漢方薬も証拠とは
「グローバリゼーション」をタイトルに謳う本は汗牛充棟である。試しにamazonで「グローバリゼーション」を検索すると、826件ヒットする。「グローバル化」だと1000件を超える。それらのほとんどは、今日ただいま我われの面前で進行中のグローバリゼーションを経済学、社会学、政治学等々の観点から分析したものだ。とはいえ、時代を遡れば、開国をもたらした19世紀の黒船到来、さらには戦国に鉄砲をもたらした15世紀の南蛮人も当時のグローバリゼーションの現れだった。そこまでは分かる。
ところが本書のタイトルは、なんと西暦1000年がグローバリゼーションの誕生だというのだ。日本でいえば清少納言や紫式部が活躍していた時代、遣唐使は廃止され、清盛の日宋貿易もないまるでドメスチックな時代ではないか。どこがグローバルなんだ、と思う人が多かろう。
本書が説き起こすのはアイスランドから北米大陸に渡ったバイキングたちの足跡だ。その足跡は中米マヤ遺跡にも及ぶ。一方スカンジナビアから東に向かい、その地にロシアの名を与えたルーシたちは、現地のスラブ人たちをその名の通りスレイブ(奴隷)として中東イスラム圏に輸出した。当時、奴隷という労働力は最大の輸出品目だったのだ。
アフリカのマリ王国のマンサ・ムーサ王は世界一の富豪王と呼ばれたが、近代以降の大西洋をまたぐ黒人奴隷貿易の原点は、イスラム圏を中心にした奴隷貿易ネットワークだった。だが、当時の奴隷は近代以降とだいぶ趣が違う。捕獲したり購入した奴隷でもって作られた奴隷軍団が、やがて支配者を殺してスルタンに成り上がっていく。そういえば、かつて高校の世界史で「奴隷王朝」という不思議な言葉を覚えたっけ。労働者が首相になる時代の遥か昔に、奴隷が王様になる時代があったのだ。
欧米人がグローバリゼーションの始まりだと思っている大航海時代とは、実のところアフリカから中東、インド、東南アジアを経て中国に至る既存の交易ルートを乗っ取っただけというのが最後のトピックだ。そこを読んでいくと、高校の世界史で大航海時代をもたらしたのは東南アジアの「香料」だったと教わった時のイメージが、食品用の香辛料に偏っていたことが分かる。西欧人がやって来るずっと前から東南アジアの「香料」はグローバル商品であり、それは日本にも大量に輸入されていたのだ。え? 平安時代の女官がスパイシーなカレーを食べていたって? そうじゃない。食べる香料じゃなくて嗅ぐ香料、「お香」だ。
そういわれてみると、まるでドメスチックに見えた平安貴族の世界が、東南アジアから宋を経て輸入されたさまざまな香料に満ち満ちていたことが浮かび上がってくる。本書では、源氏物語の香をめぐる多くの描写が引用されて、それが当時のグローバリゼーションの証しとされるのだから、何とも複雑な気分になる。
いや、食べる方の香料も宋代に発達した。漢方薬は、多様なハーブや香料を臼で挽いて粉末状にしたもの。それを煎じて薬湯として服用する。宋では世界初の公立薬局が開業した。漢方薬も古のグローバリゼーションの証しだったとは。
(ヴァレリー・ハンセン著、文藝春秋刊、2200円税込)
選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎
書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。