【本棚を探索】第18回『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』伏見 瞬 著/三宅 香帆
歌に共存するみんなと俺
ものすごく売れていて、みんなが知っているようなバンドの曲を聴くと、「めちゃくちゃ良いけどなんでこの曲『みんな』に受け入れられてるんだろう……」と不思議な気持ちになることがある。みんなが良いって言うものは、もっと、ポップで、明るくて、正しくて、ノリの良いものなんじゃないんだろうか? こんな、ちょっと狂気のにじんだ歌詞に、本当にみんな共感しているんだろうか? 本当にみんな、こんな一見マイナーにみえるようなことを考えているのかな?――と、私は思うのだが、私だって結局はその「みんな」のひとりなわけで、意外とみんな私が思うよりもマイナー性のなかで生きているのだなと、流行りのバンドの曲を聴くたび感じるのだ。
前置きが長くなったが、今回紹介する本が扱うのは、長年第一線で活躍してきたバンド「スピッツ」。「分裂」するポップ・ミュージック、という副題を付ける本書は、そのタイトルとおり作者の「スピッツ論」を一冊にまとめている。
代表曲『空も飛べるはず』と私が出会ったのは、小学校の音楽の授業のときだった。音楽の授業で取り上げられるくらいメジャーな曲なのに、意外と歌詞の意味は分かりづらい。言ってることが分かるような、分からないような、そんな解釈に戸惑う言葉が「授業」で扱われることなんてほとんどなくて、新鮮だったのだ。やがてスピッツの他の曲を聴くにつれ、歌詞の混沌はこのバンドにとってふつうのことなのだ、と理解するようになった。誰もが知っている曲を歌うバンドなのに、その歌詞はどこか人間のものすごくマイナーな感情について歌っている。本書はそんなスピッツの、メジャーでありながらマイナー性を保つ存在である様子について、「分裂」というキーワードで読み解く。
たとえばデビュー当初、売れないバンドであったスピッツは、意図して売れるように曲調を変えていったらしい。そしてその意図どおり、ちゃんと売れてしまった。『ロビンソン』のヒットを経て、スピッツは自身の在り方を模索していく。本書は彼らの軌跡を、「周辺性」を「中心性」と混ぜ合わせる試みとして解釈する。それは結果的に、日本の90年代から00年代、10年代にかけての時代性とぴったり沿うことになる。流行歌は、時に作り手の意図を超えて、時代の空気をぴたりと言い当ててしまう。本書はスピッツ論でありながら、要所要所で90年代以降の日本の時代性についての批評になっているところも魅力のひとつだ。
スピッツというバンドは、しばしば「性と死が彼らの歌のテーマだ」と囁かれる。たしかにそのように解釈することも可能なのだが、しかし一方で彼らの曲を丁寧にみていくと、同じテーマを歌い続けているようにみえてその実では毎度形を変えていることが分かる。アルバム『フェイクファー』が彼らにとってのひとつの転換点だった、という本書の指摘には思わず唸ってしまう。スピッツは「みんな」に受け入れられる歌を歌いながら、それでいて、たったひとりの「俺」の歌を歌うバンドでもある。本書を読むと、メジャーでありながらマイナーであり続けている彼らの秘密を覗くことができるのだ。
(伏見 瞬 著、イースト・プレス刊、1870円税込)
選者:書評家 三宅 香帆
書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。