【本棚を探索】第19回『ラブカは静かに弓を持つ』安壇 美緒 著/大矢 博子
潜入調査員にも葛藤
1999年の著作権法改正に基づき、音楽教室で使われる楽曲から著作権料を徴収するという日本音楽著作権協会(JASRAC)の方針に対して、ヤマハ音楽振興会を中心とした「音楽教育を守る会」が反発して2017年に提訴。ネットでも大きな炎上騒ぎになったのをご記憶の方も多いだろう。
そして2019年、証人としてJASRACの職員が出廷した。その職員はヤマハ音楽教室でどのように楽曲が使われているのかを調べるため、身元を隠し、生徒として2年間通っていたという。これが「潜入調査」として再び炎上した。
この報道を見たとき、そんな小説のようなことが本当にあるのかと驚いたことを覚えている。職員を裁判の敵方に潜入させる? つまりスパイってこと?
この出来事にインスパイアされ、あくまでもフィクションとして書かれたのが安壇美緒の『ラブカは静かに弓を持つ』である。
主人公は全日本音楽著作権連盟(JASRACとは名前を変えている)で働く橘樹。彼はある日上司に呼ばれ、ミカサ音楽教室に生徒として通うように指示される。ミカサからの提訴に備え、教室の実情を探ってこいというのだ。
橘は子どもの頃にチェロの経験があったので、チェロの上級コースに入ることに。そして、著作権切れのクラシックではなく、あえてポップスを練習したいと言ってみたり、会話や練習を録音したりと、「スパイ活動」を始めた。しかし、個人指導の先生がとても魅力的な人物だったこと、ともにチェロを弾く仲間ができたこと、チェロを弾くこと自体の楽しさを思い出したことなどから、スパイであることに次第に罪悪感を覚えるようになり――。
この葛藤の描き方が実に見事。さらには、文字のみで構成され音など聞こえるはずのない小説という媒体であるにもかかわらず、著者の筆致がその「音」を読者に届けるのだ。海の底から響いてくるような静かな音色であったり、高く飛び跳ねるような明るいメロディであったり。いつしか読者は橘とともに、音楽の魅力に取り憑かれていく。
しかしタイムリミットは近付く。証人として出廷する以上、彼がスパイだったことは先生にも仲間にもばれてしまう――というところからの意外な展開と、その後の畳み掛けは圧巻だ。
物語のテーマは、一度築いた信頼が壊れる様子と、それを修復することはできるのかという点にある。だが私が感じたのは、実際に「潜入調査」をした職員も辛かったのかもしれないということだった。
ある人物が、橘について「仕事でやれって言われたことなら、そりゃやるしかないだろう」「自分の信条とか信念なんて、組織の中では貫けないものなんだ」と語る場面がある。それは真実かもしれない。であるなら、せめて人を使う側は使われる側の気持ちに寄り添ってほしいと思うのだ。綺麗事かもしれないが。
迷いの中で橘は、ある選択をする。それは彼が、音楽教室の仲間と自分の職場のどちらかを裏切るということだ。自分が橘ならどうするか、ぜひ我が身に引き寄せて考えてみていただきたい。
心揺さぶる、静かなエスピオナージュである。
(安壇美緒、集英社刊、1760円税込)
選者:書評家 大矢 博子
書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。