【書方箋 この本、効キマス】第9回 『寄席育ち』三遊亭 圓生 著/三遊亭 楽麻呂
芸道の極地ありありと
人にはそれぞれバイブルと呼べる一冊があるように思う。キリスト教文化圏の人々にとっては文字どおり『聖書』であるし、進化生物学者にとっては『種の起源』、また麻雀好きにとっては阿佐田哲也の『麻雀放浪記』かもしれない。そして私にとってのバイブルはまさにこの『寄席育ち』である。職業落語家だけでなく近代日本史研究者から一般の読者に至るまで、幅広い層に興味を持って迎え入れられる良書であると確信している。
私の師匠五代目円楽の師匠に当たる六代目圓生を語る上でのキーワードの1つ目は不世出である。今後の落語会にこれだけの巨人はもう出てこないと思われる。明治篇で書かれているとおり、圓生師はわずか6歳からいやも応もなく芸界という、荒い波がうねる嵐のような海の中に放り込まれてしまった。そこには自分の意志というものはまったくなく、ただただ運命に翻弄されただけである。時代といってしまえばそれまでだが、現代ではこんな年端のいかぬ子供のうちから学校にも行かず芸道にのみ精進していくなんて、梨園の御曹司として誕生する以外には考えられない。それでも学校には行くだろう。はじめて紐解いた時に、その壮絶な生き様に息もつけずに一気に読み進んでしまったことを覚えている。
2つ目のキーワードは大器晩成。我われ現代人は圓生師の完成されて高みに登った珠玉の名人芸しか知らないが、ローマは一日にして成らずである。一条の光も差し込まない暗黒の海底に日々少しずつ砂が堆積し、何十年も経った後に地殻変動で積もりに積もったものが隆起し、突然美しい地層が現れたように芸が開花する様を追っていくのはまるで小説のようである。満州での数奇な出来事も書いてあるが、その戦争体験により人間も芸も一段と大きくなったという。世に出るまでに幾星霜、よくぞ途中で腐らず成功を信じ努力と辛抱を重ねられたと、その強靭な精神力、胆力には感嘆しかない。
ともかくも、本書に迫力を与えているのは忖度も脚色もない心の奥からの本音である。列伝篇では圓生師が接したことのある落語家評がズラリと並んでいるが、ズバリとした物言いで爽快感すら覚える。返り討ちを覚悟で歯に衣着せずに良し悪しを評することは勇気がいる。もちろん自分の芸に対する自信もあるだろうが、何よりも芸道に対する真摯な思いと愛情が世辞やべんちゃらを排したのであろう。圧巻である。
最近そこかしこで新しい景色という言葉が発せられるようになってきたが、芸を突き詰めて極めた者だけが到達できる景色を書いてくれている。私には一生掛かっても見えない風景だ。自分史や寄席、落語の歴史だけでも貴重な書物だが、それだけでなく落語家の具体的な修行のやり方や心構えまで芸を上達するための方法を包み隠さず教示してくれているのも、我われ後輩にとってはありがたい。自分の才能に疑問を感じた時、いつまで経っても芽が出ないことに落ち込んでいる時にもう一度この本のページをめくるとまたエネルギーをもらえる。
(三遊亭 圓生 著、岩波書店 刊、税込1738円)
選者:落語家 三遊亭 楽麻呂(さんゆうてい らくまろ)
1963年、千葉県生まれ。82年に五代目三遊亭円楽に入門。85年に二ツ目に昇進し、91年に真打ち昇進。現在は五代目円楽一門会の事務局長を務める。
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