【書方箋 この本、効キマス】第20回 『一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』 カール・マルクス 著/濱口 桂一郎
ウクライナ侵攻の理解へ
一昨年から毎月、書籍を紹介してきたが、今回の著者は多分一番有名な人だろう。そう、正真正銘あの髭もじゃのマルクスである。
ただし、全50巻を超える浩瀚なマルクス・エンゲルス全集にも収録されていない稀覯論文である。なぜ収録されていないのか? それは、レーニンやとりわけスターリンの逆鱗に触れる中身だからだ。そう、マルクスを崇拝していると称するロシアや中国といった諸国の正体が、まごうことなき東洋的専制主義であることを、その奉じているはずのマルクス本人が、完膚なきまでに暴露した本であるが故に、官許マルクス主義の下では読むことが許されない御禁制の書として秘められていたわけである。
本書の元論文がイギリスの新聞に連載されたのはクリミア戦争さなかの1856年。そんな19世紀の本が、いま新たに翻訳されて出版されるのは何故かといえば、いうまでもなく、歴史は繰り返しているからだ。今目の前で進行中のウクライナ戦争を理解するうえで最も役に立つのが、19世紀のマルクスの本だというのは何という皮肉であろうか。
マルクス曰く「タタールのくびきは、1237年から1462年まで2世紀以上続いた。くびきは単にその餌食となった人民の魂そのものを踏み潰しただけではなく、これを辱め、萎れさせるものであった」。「モスクワ国家が育まれ、成長したのは、モンゴル奴隷制の恐るべき卑しき学校においてであった。それは、農奴制の技巧の達人になることによってのみ力を集積した。解放された時でさえ、モスクワ国家は、伝統的な奴隷の役割を主人として実行し続けていた。長い時間の末、ようやくピョートル大帝は、モンゴルの奴隷の政治的技巧に、チンギス・ハンの遺言によって遺贈された世界征服というモンゴルの主人の誇り高き野望を結びつけた」。
ヨーロッパ国家として歩み始めたキエフ国家が滅び、タタールのくびきの下でアジア的な専制主義を注入されたモスクワ国家が膨張し、ロシア帝国を形成していく過程を描き出すマルクスの筆致は、ほとんどロシア憎悪にすら見える。もちろん彼が憎んでいるのはツァーリ専制の体制である。そしてそれがそのまま共産党支配下のスターリン専制に、今日のプーチン専制に直結している。
しかもその射程はロシアに留まらない。序文を書いているカール・ウィットフォーゲルの主著は『東洋的専制主義』で、彼がマルクスのロシア像の向こう側に透視しているのは皇帝専制の中華帝国であった。本書をいま刊行しようとした石井知章、福本勝清という二人の編訳者はいずれも現代中国研究者であり、天安門事件以来の中国共産党支配と習近平の専制政治を見つめてきた人たちである。
訳者の一人福本は言う。「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。…専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺国家を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。…今後、いかに強大な専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」。
(カール・マルクス 著、白水社刊、2750円税込)
選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎
濱口桂一郎さん、髙橋秀実さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週、皆様に向けてオススメの書籍を紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にいかが。