【書方箋 この本、効キマス】第22回 『「がん」はなぜできるのか』  国立がん研究センター 編/髙橋 秀実

2023.06.15 【書評】
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「うそ」から始まる増殖

 個性を尊重する、とよく言われるが、実際に人と違うことをすると「協調性がない」と非難されたりする。自由こそが理想のはずなのに、自由に振る舞うと身勝手だと顰蹙を買う。人は公平に扱われるべきだが、公平こそが能力の不公平を生み出すことになる……。

 私はこれを「道徳のジレンマ」と呼んでいる。道徳の教えには作用・反作用があり、世の中は道徳をめぐる力学で動いているような気がするのだが、まさか医学にまで波及しているとは思わなかった。

 先日、人に勧められて手にした『「がん」はなぜできるのか』。世界トップレベルのがん研究の成果を一般向けに解説しているのだが、これが医学というより道徳の教科書のように読めたのである。

 同書によると、人体は数十兆個の細胞からなっている。その始まりはたった1個の受精卵。それが分裂を繰り返して増殖し、さまざまな種類の細胞へと分化して、組織や臓器を形成する。「細胞社会のルール」に従い、それぞれが分相応に生きているのに、がん細胞は「コントロールを逃れ」て「体全体の都合にはおかまいなしに勝手に」増殖を続ける。まったくもって不道徳。身勝手なやつなのだ。

 がんは周囲の組織に入り込み、血流などに乗って他の臓器に転移したりする。正常な細胞はその場にとどまるが、がん細胞には「足場依存性」がなく、所かまわず増殖し、周囲の環境を自分仕様に変えていく。どこでもすみつくエイリアンのようなのである。

 現在の医学では、がんは「遺伝子の病気」とされている。人体は遺伝子(DNA)の情報に基づいてさまざまなタンパク質がつくられており、細胞の正常な増殖もタンパク質の「精鋭部隊」が管理している。部隊内で「増殖せよ」という信号が伝達されていくそうなのだが、DNAに変異が起こると、部隊内に「うそをつく者が出てくる」とのこと。正確な情報ではなく、「うそ」を伝える。「うそ」によってがんの増殖が始まるそうなのだ。

 うそつきはがんの始まり、ということか。うそに限らず、がんは「おしゃべり」らしい。さまざまな情報を発するので、治療はそれをキャッチして増殖を抑えようとする。しかし免疫機構で攻撃しても、がん細胞はそれをすり抜けるし、薬剤を投与しても、耐性を持ったがんが新たに増殖を始めたりするという。なぜなら彼らはDNA変異を繰り返して「進化」し、「多様性」を獲得するから。どんな環境でも誰かが生き延びるという「強靱なシステム」を構築しているとのことだ。

 考えてみれば多様性は美徳であり、うそも方便。身勝手も生命力といえる。読んでいるうちにがんにも三分の理があると思えてきたのである。

 かつて米国の作家スーザン・ソンタグは、がん医学を軍事用語からの借用だと指摘していた。増殖を「侵略」、転移を「植民地」になぞらえていると。かくして医学は正体不明の恐るべき敵との戦闘の様相を呈したのだが、日本では道徳からの借用かもしれない。がんを「殲滅」するのではなく、がんの「寛解」を待つ。がんと闘うのではなく、がんとの「共生」をめざす。私たちは和を以て貴しとなすのである。

(国立がん研究センター 編、講談社 刊、税込1210円)

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ノンフィクション作家 髙橋 秀実 氏

選者:ノンフィクション作家 髙橋 秀実

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令和5年6月19日第3405号7面 掲載
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