【書方箋 この本、効キマス】第25回 『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』荒井献ら編訳/髙橋 秀実
妬みに備える処世術?
過日、妻がキリスト教系の病院に入院することになった。コロナ禍で面会も一切禁止。夫としてなすすべもなく、私はひたすら回復を祈るしかなかった。しかしクリスチャンではないので祈り方を知らず、あらためて院内の教会にあった祈りの手引書を読んでみたのだが、文言がよく理解できなかったのである。
病気を治してくださいと祈願するのではなく、「私は一人ぼっちです」「心が弱くわがままになっています」と嘆く。あるいは不信心を「おゆるしください」と謝ったり、「すべてはあなたの御心のままになりますように」と無闇に委ねたりするというのだ。
なんで?
畏れ多くも私はそう思った。別に異論があるわけではないのだが、これでは文言に気持ちが入らないのである。そもそも私はキリスト教がよく分からない。仕事の関係で聖書を通読したこともあるが、個々のエピソードは理解できても、全体像が見えてこない。理解して信じるのではなく、信じることで理解できるのかもしれないが、何を信じれば良いのか分からない。そんな矢先に一筋の光を与えてくれたのが本書だった。
ナイル川中流域の町、ナグ・ハマディ近くで発見された初期キリスト教の写本群。「聖書外典」と呼ばれるくらいで異端の文書類らしいのだが、正統な教会から公認されていないというだけで、私などからすると初めてキリスト教全体の文脈がつかめたような気がしたのである。
たとえば、文書のひとつ、「ヨハネのアポクリュフォン(秘められた教え)」。最初に登場するのは「見えざる霊」で、それは「光」でもあるらしい。神と呼ぶべきではなく、いかなる性質も持たず、説明すらできない至高の存在。それが水に映った自分自身を見つめることで、「不滅性」「真理」「叡智」「意志」「言葉」などが次々と現われ出たのだという。ところがその中の「知恵(ソフィア)」が、誤って「異形の子」を生んでしまう。それが聖書正典の「神」。数日で世界を創造したという造物主で、彼は「われこそは神である。われの他に神はない」と宣言した。要するに自意識過剰な父であり、こう続けた。「私こそは妬む神である」。
旧約聖書の「出エジプト記(第20章)」にも記されているように、実は神とは「妬み」そのものなのだ。何もかも自分がつくったと自負し、自分と似たような存在を許さない。だからバベルの塔も破壊するし、良い人に限って災難に見舞われたりする。「ルカによる福音書」などで、神は貧しい人や飢えている人、泣く人を「さいわいだ」と賞賛し、裕福な人や満腹な人、笑っている人を「わざわいだ」と呪っているが、それも妬みのなせる業なのだ。
なるほど。
私は得心した。夫婦愛を妬まれないためにも、妻の回復を表立って祈願してはいけないのである。背中を丸めて懺悔したりするしかないわけで、何やら卑屈な感じもするが、よくよく考えてみれば、世の中を動かしているのは「妬み」である。成功すると妬まれる。しあわせを見せびらかすとネットで袋叩きにされる。妬む神は今も健在で、それに備えることは信仰というより処世術として有効なのかもしれない。
(荒井献ら編訳、岩波文庫刊、税込1518円)
選者:ノンフィクション作家 髙橋 秀実
濱口桂一郎さん、髙橋秀実さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週、皆様に向けてオススメの書籍を紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にいかが。