【書方箋 この本、効キマス】第29回 『あ・うん』 向田 邦子 著/影山 貴彦
幻の直木賞受賞作?
いささか大げさな見出しを付けたのには理由がある。向田邦子は第83回(1980年上半期)の直木賞を受賞している。受賞は、連作短篇集『花の名前』、『かわうそ』、『犬小屋』によるものだ。
『あ・うん』の文庫版に解説文を寄せているのは、直木賞作家でエッセイストとしても知られる山口瞳だ。直木賞選考委員に選出されたばかりの山口はその中で、第83回の直木賞候補作に当初『別冊文藝春秋』3月号に掲載された『あ・うん』を推薦したと述べている。だが山口によれば、選考委員が推薦すると、そこに非常に重みが生じてしまうということで、軽々に推してはならないのだと日本文学振興会とのやりとりから解釈し、様子をよく呑みこめないまま、『あ・うん』の推薦を取り消したという。
蓋を開けてみれば、向田邦子は同時期の直木賞の候補となっていた。ただ候補作は、本書ではなく、『小説新潮』に連載中の3つの短篇だったのだ。もちろん山口は終始向田を推し、結果見事受賞となったわけだが、彼は「『あ・うん』でもっと頑張ればよかった」と記している。「小味に過ぎるのではないか」という別の選考委員の言葉を耳にもした。向田邦子唯一の長編小説でもある『あ・うん』ならば、「小味」などと言われなくて済んだのに、ということだ。あくまで山口の記していることではある。他の事情もあったとも聞く。だが、もしかすると向田邦子の直木賞受賞作は『あ・うん』だったかもしれないと想像するのは、向田ファンのひとりとして楽しい。
『あ・うん』は、第二次世界大戦の足音が近付きつつある昭和10年代の社会を舞台に、門倉修造と水田仙吉という、外見も性格もそして財力も正反対の2人の、神社の狛犬の「あ・うん」のような友情を核にしながら、門倉が水田の妻・たみに寄せるプラトニックな恋心のせつなさを描いている。この小説が『別冊文藝春秋』に発表された同年の1980年、NHKにより初めてドラマ化され好評を博し、翌年に続編が制作された。門倉役は杉浦直樹が、水田役はフランキー堺が演じた。降籏康男監督メガホンで映画化されたのは、向田が亡くなってから8年後の1989年のこと。高倉健が門倉を板東英二が水田を演じている。
書籍のカバーだが、単行本・文庫本のいずれも装画は向田が尊敬する芸術家、中川一政の手によるものだ。彼女は、1981年初夏と記された単行本のあとがきに、「夢は見るものだなと、五十を過ぎた今、思っている。叶わぬ夢も多いが、叶う夢もあるのである」と綴っている。向田は、この年の8月22日、旅行中の台湾で飛行機事故に遭遇し、51歳の若さで亡くなっている。今年で42回目の夏だ。毎年この時期には彼女が脚本家として筆を振るったドラマの数々や、作家として残した珠玉のエッセイや小説に触れるのが、私自身の常となっている。『あ・うん』も、もちろんそのひとつ。さらなる続編の予定があったとも聞く。「生き急ぐ」という言葉は、彼女のためにあるのではないかとさえ思えてくる。
(向田 邦子 著、文春文庫 刊、税込627円)
選者:同志社女子大学 メディア創造学科 教授 影山 貴彦(かげやま たかひこ)
毎日放送を経て現職。著書に『テレビドラマでわかる平成社会風俗史』(19年)など。
濱口桂一郎さん、髙橋秀実さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週、皆様に向けてオススメの書籍を紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にいかが。