【書方箋 この本、効キマス】第42回 『NHK短歌 新版 作歌のヒント』 永田 和宏 著/髙橋 秀実
仮名序をもしのぐ歌論
恥ずかしながら、還暦を過ぎて私は和歌に目覚めた。それまで和歌は学ぶべき古典にすぎなかったのだが、夕日を眺めている時にふと「あかねさす」という枕詞が口をついて出てきたのである。朝起きて、雨が降っていると「ひさかたのあめにしをるる」とか。短歌を詠みたいという衝動なのだろうか。かつて西行が「なにとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」と歌ったように、なんとなく胸の内から七五調が沸き上がってくるようなのである。
もしかすると認知症の父が月を見るたびに「赤城の山も今宵限り」と口上を述べていたことの影響かもしれない。私も神社などに行くと、つい「ちはやぶる神よもきかず」などと口走ってしまい、そのままヘンな老人になってしまうのではないかと不安に襲われたのだが、本書はこの衝動を初歩から優しく歌詠み(作歌)へと導いてくれた。
簡潔にまとめられた47のヒント。著者の永田和宏さんは細胞生物学者でもあり、歌人としては宮中歌会始の選者も務める。そのせいか細胞レベルで短歌を説き起こしているようで、一つひとつが腑に落ちたのである。たとえば、
「初句は常に唐突である」
確かに「あかねさす」「ひさかたの」などの枕詞は唐突だし、初句の多くは「ながむれば」「いかにせん」「あはれなり」などといきなり始まる。自然に歌いだしていくのではなく、いきなり始めるのが短歌なのだ。
ノンフィクションの文章などでは慣用句や決まり文句を避けるべきだが、短歌の世界では決まりきった枕詞が独特の役割を担うという。それらは無意味ゆえに「意味に縛られることから自由にな」れる。そして「韻律のゆるやかな歩調に情感を添わせることによって、歌をしみじみと音感や韻律、あるいは皮膚感覚で感じる」ようになるらしい。
わずか五句三十一音からなる短歌。人はどうしてもそこに意味を込めたり、言いたいことを詰め込もうとするが、あえてそれらを捨てる。常識や意味を捨て、説明や形容詞を省き、辻褄を合わせようとしない。大切なのは「小さな具体」を選びだすこと。それ以外の物事を無視するそうで、実例としてはこんな短歌。
「逝きし夫(つま)のバッグのなかに残りいし 二つ穴あくテレフォンカード」
長く病院に入院していた夫を見送った玉利順子さんの作品で、私は読みながら思わず涙ぐんだ。「哀しい」とも「寂しい」とも言わず、「二つ穴あくテレフォンカード」。最後に感想を述べたり、まとめたりせず、結句で「ジャンプする」。それは読者への信頼であり、作者自身からの解放でもあるという。大切なのは「作者の小さな世界観で歌を小さく縛ってしまうよりは、歌を不全性のなかに解放してやる」こと。読者が「自らの文脈のなかで再現したり、再生」することで、短歌は「はるかに大きな世界」を獲得するのだという。
これは短歌に限らず、あらゆる表現の基本かもしれない。本書は古今和歌集の仮名序をしのぐ歌論であり、秀逸な日本語論でもある。著者自身も新版を出すために本書を読み返したそうだが、「よく書けている」と感動し涙ぐんだそうで、ご本人も言うのだから間違いないだろう。
(永田和宏著、NHK出版刊、税込1650円)
選者:ノンフィクション作家 髙橋 秀実
濱口桂一郎さん、髙橋秀実さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週、皆様に向けてオススメの書籍を紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にいかが。