【書方箋 この本、効キマス】第64回 『リンカンと奴隷解放』 浜田 冨士郎 著/大内 伸哉
労働法学者が記す米国史
2024年はアメリカ大統領選挙の年だ。アメリカは、日本でも、ニュースなどで報じられない日がないくらい身近な国だ。しかし私たちは本当のアメリカをどれだけ知っているだろうか。
本書の著者は、自由と平等を基本理念とするアメリカには、黒人(および先住民)に対して大きな過ちを犯した過去があり、今日でも、「贖罪としていったい何がなされるべきなのか、その基本的な方向について社会的な合意を形成することさえなおできてはいない」と指摘する(はしがきⅲ頁)。アメリカの奴隷制を紹介する文献は多数あるが、本書は、アメリカ法に造詣が深い労働法学者の手で、アメリカの奴隷制がどのように誕生し、それがどのような政治的・法的な環境の下で議論されてきたのかを、リンカンの人生をたどりながら丹念に描いた点に特徴がある。
奴隷制をめぐる論争は、擁護派の南部と撤廃派の北部との戦いだった。両者の違いは、奴隷制が人々の社会や生活にどれだけ深く食い込んでいるかによる。奴隷が、人道上問題があることは当時から異論はなかったが、連邦が南部の奴隷州に介入しようにも、州は独立した国であり、憲法上、連邦が介入できることに限界があった。奴隷州になるかどうかを州の住民で決定する住民主権の考え方(キャンザス・ネブラスカ法)にも、それなりの理由があった。
しかし、奴隷解放がすんなり進まない根本原因は、「憲法が奴隷制を許容、容認していること自体に疑問の余地はない」ことにあった(56頁)。奴隷は動産であり、自由・平等の享有主体の対象外だし、奴隷解放は、奴隷主の財産権の侵害だった。連邦最高裁も、奴隷の訴訟資格を否定し、奴隷反対派を失望させた(ドレッド・スコット事件判決)。
リンカンが大統領になったのは、奴隷制をめぐる国内の対立が、立法や司法だけでは解決不能という危機的な状況に陥っていたときだった。そして、リンカンは見事に人類史に残るアメリカの汚点である奴隷制を終結させ、南北の分断も回避した。まさに英雄と呼ばれるにふさわしい。
もっとも、著者は、リンカンの優柔不断なポピュリストという人間的な面も描いている。リンカンが奴隷解放への揺るぎない信念をもっていたことは確かだが、彼より積極的な奴隷解放論者もいたのだ。法律家でもあるリンカンは、奴隷制を否定していない憲法に縛られていた。奴隷解放宣言は、その英雄像とは異なる、一人の人間の懊悩の末の産物であり、決して自由と平等の原理の勝利ではなかった。
リンカンの最後の仕事が憲法改正による奴隷制禁止であるのは必然だった。しかしリンカンは、その実現を見る前に暗殺される。リンカンなき修正第13条は、改革のエネルギーを失った。真の奴隷解放は未完に終わり、その状況は今日も変わっていないのだろう。
では、もしリンカンが暗殺されていなかったらどうだったか。著者は、大きな違いはなかった可能性を示唆する(286頁)。リンカンを分析し尽くした著者の冷静な視線が印象的だ。
(浜田 冨士郎 著、信山社刊、税込3520円)
選者:神戸大学大学院 法学研究科 教授 大内 伸哉(おおうち しんや)
主な研究テーマは、AIと雇用、フリーランスをめぐる法政策。近著に『最新重要判例200労働法』(第8版)。
レギュラー選者3人と、月替りのスペシャルゲストが毎週、書籍を1冊紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にどうぞ。