【書方箋 この本、効キマス】第74回 『トヨタの子』 吉川 英梨 著/大矢 博子
浮かび上がる苦悩と葛藤
実名を出した経済小説のジャンルがある。最も有名な作家は高杉良だろう。タイトルに企業名を掲げた『小説 日本興業銀行』、『落日の轍 小説・日産自動車』などのドキュメントノベルの他、実在の企業や人物の名前をそのまま使った小説を多く発表している。
事実が読みたければノンフィクションや伝記があるのになぜ小説にするのか。それは企業そのものを描くのが目的ではなく、現実の出来事や実在する人々の姿を通して読者に伝えたいテーマがあるからに他ならない。
実名を使うからには当然さまざまな軛がある。高杉良もかつてモデルにした企業から訴えられたことがあるし、単なる暴露モノでは「物語」を求める読者の満足を得られない。何より大きな制約は「現実」だ。実名を使う以上、いくら小説といえどあまり現実離れした創作は入れられない――と、思っていた。
ところが、実名小説であるにもかかわらず、とてつもなく現実離れした経済小説が誕生したのである。『トヨタの子』はそのタイトル通りトヨタ自動車を舞台に、創業者の豊田喜一郎と現会長の豊田章男を主人公にした経済小説だが、なんと章男がタイムリープして祖父の喜一郎に会いに行くというSFなのだ。
昭和38年、小学校にあがったばかりの章男が車に撥ねられるというプロローグのあと、物語は明治に移る。幼ない喜一郎が「ショウワから来た」と告げる少年と出会う場面に始まり、人生の岐路で未来を知っているようなことを言う人物と遭遇するようになる……という物語だ。
ここに描かれるトヨタの歴史は基本的に事実に基づいている。試作第1号車の苦労や戦後の労働争議、業績不振の責任をとった喜一郎の辞任とその後の朝鮮特需。近年ではリーマン・ショックからの赤字転落や北米でのプリウスの事故についての公聴会など。トヨタの創業から今日までの歴史が綴られ、社史としての読み応えは充分だ。
だがそこに著者は大きな捻りを加えた。タイムリープというファンタジックな設定を入れることで、新事業に打って出た喜一郎の苦難と、御曹司として特別扱いされ続けた章男の葛藤がより色濃く浮かび上がる。読者はいつしかトヨタという実在の会社から離れ、災害や戦争、不景気や差別という逆風の中で、彼らの夢がどうなるのかという「物語」に引き込まれるだろう。
実在しない人物も多く登場するし、あまりに悲しい出来事のせいかテストドライバーの死亡事故は登場しない(それに類する出来事はある)。また、社内の権力闘争で悪役となる人物は架空の名前だし、反対派の謀略にも創作は入っているだろう。もちろんタイムリープは大嘘だ。そういった「嘘」を混ぜるのなら実名である必要はないようにも思える。しかしこうして闘ってきた人がいるのだという事実が物語を補強するのだ。それこそが実名経済小説の醍醐味と言って良い。
実名企業小説にしてSF小説であり、近代史小説であり、ミステリーでもある本書。ともすれば一企業の宣伝小説になりかねないところを、特殊設定でエンタメ度がアップした。経済小説の主な読者は中高年男性だが、これは女性や若い層にもアピールする1冊だ。
(吉川 英梨 著、講談社 刊、税込3080円)
選者:書評家 大矢 博子
レギュラー選者2人とゲストが毎週、書籍を1冊紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にどうぞ。