【書方箋 この本、効キマス】第86回 『エアー3.0』 榎本 憲男 著/大矢 博子
「自治区」広める狙いは?
〈「この世の中の情勢を大きく左右してるものはふたつあると思うんだ」
ふたつ? ふたつならあれとあれだろう。いまの世は、あれとあれを牛耳ったものが勝つ。あれとあれの権益を押さえるために、連中はどんな手でも使う。〉
榎本憲男『エアー3.0』の一節である。世界情勢を左右する「あれとあれ」を巡る経済サスペンスだ。
物語の始まりは2015年刊行の氏のデビュー作『エアー2.0』。規格外れの計算方法とビッグデータで市場の空気までをも読み取り、莫大なマネーを生み出す市場予測システム「エアー」をひっさげて、政府との丁々発止の交渉の末に福島の帰宅困難地域に特別経済自治区を作り上げるという物語である。
本書『エアー3.0』はその続編だ。莫大な資金を得て福島に経済特区を作った財団法人「まほろば」。ペイマスターである中谷は、資金をデジタル通貨「カンロ」に変えて自治区で環流させ始める。日本経済が鈍化する中で大きな躍進を続けるまほろばは福島のみならず日本の各地に自治区を創設、そこには人が集まり、生産性が上がり、カンロもシェアを広げていった。
そして中谷はついに世界へ出る。その行き先はカナダ、中国、そしてロシア。いったい彼は何をめざしているのか。中谷の側近である市川と福田は急過ぎる開拓に危惧の念を抱く。そしてマスメディアは、カンロは虚像であり詐欺としてまほろばを批判し始める――。
いやはや、圧倒的な吸引力である。待て待て、そんなバカなと随所で思いながらも、膨大な情報量と説得力のある論理に時間を忘れて読み耽ってしまった。
ベースは荒唐無稽なのだ。ウォール街で勝ち続けて国家予算並の資金を手にするというのは最早SFだし、金融取引の勝因を聞かれて「お告げに従っている」と返すのも怪し過ぎる(事実なのだけれど)。中谷が各国の主要人物との会談やネットでの配信を通して、社会に必要なのは「やさしさ」と何の衒いもなく言い切るくだりは、投資家というより胡散臭い宗教家を連想させる。
なのに、読まされてしまうのだ。この現実離れした設定が、BRICS銀行設立から原発処理水海洋放出、ウクライナ紛争、新疆ウイグル自治区の人権問題、進まない自然エネルギーへの置換、はては事実と陰謀論の隙間を縫うような経済解釈やラーメン談義に至るまで、大小さまざまなリアルでどんどん補強されていく。荒唐無稽に見えたスタートは、こんな自治区が成功を収めたら世界経済はどう動くかというシミュレーション小説へと収斂するのである。
世界を飛び回る中谷の目的が読めずに振り回される側近たちやメディア関係者の人間模様にも注目したい。財団法人の中枢として、ジャーナリストとして、それぞれの正義や理想が現実と軋轢を生むくだりも読ませる。設定の面白さだけではなく、そこで足掻く人々の描写が物語を血肉の通ったものにしているのだ。
そして気付けば、金とは何か、国とは何かというとんでもないところまで連れて行かれる。前作を未読でも問題なし。細かいツッコミなど入れる暇もないほど熱中させられる。衝撃のラストまで一気読み間違いなしだ。
(榎本 憲男 著、小学館 刊、税込2530円)
選者:書評家 大矢 博子
レギュラー選者2人とゲストが毎週、書籍を1冊紹介します。“学び直し”や“リフレッシュ”にどうぞ。