【本バンザイ!!】懐かしさに心震える「蟬しぐれ」/鷲尾 賢也
2013.02.18
【労働新聞】
秋山だけではなく、私にも似たような体験があった。私に押しつけられた相手からも、必ずといっていいほど感謝の言葉が返ってくるのだ。「いやー、おもしろかった」。ああいう小説なら、もっと読みたい。ぜひ教えて下さい、と。
主人公は、政争に巻き込まれ、父を失い、30石ほどの家禄をさらに減らされた牧文四郎という青年。互いに魅かれる隣家のふくという少女、性格や家格はちがうが仲のいい友人などが、北国の小藩の騒動に巻き込まれながら成長してゆくストーリーである。
粗筋だけ取り出せば、主人公が内面の成長を遂げてゆくいわゆるビルドゥングスロマーン(青春教養小説)かもしれない。しかし、その背景にある貧しさ、風土、人間関係の描写は、時代小説というより現代にも通じる清新さをもっている。なによりも、主人公たち若者の溌剌とした精神(行動、言葉)が、読み手を打つ。自分にもあった時間。回顧だけではなく、懐かしさに、多くの心が震えるのである。
数奇な経過をたどったすえ、ふくは藩主の側室にまでのぼり、世継ぎを生む。文四郎とふくの最後の出会いと別れ。何度読んでも、涙腺がゆるむ。抑制のきいた静謐な文章も魅力のひとつだ。
今回、この原稿のために書棚を探したが見つからない(誰かにまたあげてしまったらしい)。仕方なく、あわてて本屋に走った。第66刷であった。読み始めたらとまらない。結局、最後まで読んでしまった。何度目になるだろうか。
筆者:鷲尾 賢也
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平成25年2月18日第2909号7面 掲載