【国土を脅かす地震と噴火】5 日本書紀に残る記録① 科学的調査で存在を証明/伊藤 和明
日本最古の歴史書である『日本書紀』には、古代に発生した地震にかかわる記述がいくつもみられる。それらの記述から、私たちは、大昔に日本列島で発生した地震災害について知ることや、現代にも通じる防災上の課題を探ることもできる。
日本最古の地震記録は、『日本書紀』の允恭天皇5年7月14日の項に、「五年秋七月丙子朔、己丑、地震」と記されているものである。西暦では、416年8月23日に当たる。
「地震」とあるのは、「なゐふる」と読む。「なゐ」とは、土地または地面を指す言葉であり、それが振れる、すなわち揺れるということで、地震を表現していたのである。
ただ、これだけの記述からは、どこを震源として起きた地震なのか、また地震の規模も被害の程度も推測することはできない。
明らかに災害を伴った最古の地震として記されているのは、推古天皇7年4月27日(599年5月28日)に起きた大和の地震である。建物がことごとく倒壊したうえ、「四方に令(のりごと)して、地震の神を祭(いの)らしむ」と書かれている。この記述から、当時の人びとが、地震を神の仕業と考えていたことが分かる。
この地震についても、大和の国で大きな被害の出た地震と書かれているだけなので、震源がどこで、どんなタイプの地震だったのかを推測することはできない。
時代は下って、天武天皇の時世になると、諸国からの情報が中央へと集まりやすくなった。天武天皇は、古代天皇制を確立し、中央集権国家を築き上げた天皇だっただけに、各地で起きた災害などの情報が、速やかに大和の朝廷に届くようになったのである。
『日本書紀』の天武天皇7年12月(679年1月)の項には、次のような記述がある。
「是の月に、筑紫の国、大きに地動(なゐふ)る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舎屋、村ごとに多く仆(たふ)れ壊(やぶ)れたり。是の時に、百姓の一家(あるいへ)、岡の上に有り。地動る夕(よひ)に当りて、岡崩れて処遷(ところうつ)れり。然れども家既に全くして、破壊(やぶ)るること無し。家の人、岡の崩れて家の避(さ)れることを知らず。但し会明(あけぼの)の後に、知りて大きに驚く」
筑紫の国、つまり現在の九州北部で大地震があって、大きな地割れを生じ、多数の農家が倒壊した。このとき、岡が崩れて、その上にあった一軒の農家も、崩れ落ちた土砂とともに移動したのだが、家は全く壊れなかった。そのため、住人は家の動いたことに気付かず、夜が明けてから知って、たいへん驚いたというのである。
これは明らかに、地震とともに大規模な地滑りが起きたことを物語っている。
近年行われた活断層の発掘調査から、この筑紫の国の地震は、現在の久留米市附近を東西に走る水縄断層の活動による地震だったことが明らかになった。
まさに、『日本書紀』に書かれた記録と、近年の科学的調査とが符合して、大昔の地震の謎が解き明かされた事例といえよう。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明
〈記事一覧〉 |