【国土を脅かす地震と噴火】6 日本書紀に残る記録② 広大な土地が海面下に/伊藤 和明
『日本書紀』には、天武天皇13年10月14日(684年11月29日)の項に、海溝型巨大地震の最古の記録がある。
「国挙(こぞ)りて男女叫び唱ひて不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(しろ)、没れて海と為る。古老の曰はく、『是の如く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ」
広範囲に及ぶ激震によって、阿鼻叫喚のありさまとなり、山は崩れ、川の水は湧き出し、諸国の官舎や家屋、社寺などが数え切れないほど倒壊し、多くの死傷者が出たと記されている。また、ここにいう“伊予湯泉”とは、現在は松山市内にある道後温泉のことで、地震で水脈が変化し、温泉の湧出が止まってしまったことを指している。
注目したいのは、“土佐の国の田や畑が50万頃あまり沈下した”と記されていることである。ここでいう“頃”とは、当時の面積の単位で、50万頃は約12平方キロに当たる。つまり、それだけの面積の土地が、地震に伴う地盤の沈下で、海面下になってしまったことを示しているのである。
さらに『日本書紀』には、この大地震の記述から18日後に、土佐の国司からの報告として、「大潮高く騰(あが)りて、海水瓢蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調運ぶ船、多に放れ失せぬ」と記されている。これは、大津波が土佐の国、現在の高知県の沿岸に襲来して、大和の朝廷に貢ぎ物を運ぼうとしていた船が、多数流失してしまったことを意味している。土佐の国からの報告が、遠く大和の朝廷に届くまで20日近くかかったとすれば、この津波が先述の大地震によるものだったと考えるのが自然であろう。
これらの記述を総括すると、①広範囲にわたる激甚な震害、②12平方キロにも及ぶ地盤の沈降、③沿岸地域への大津波の襲来――という事実から、この地震が南海トラフで発生した海溝型の巨大地震であったことが容易に推測される。この大地震は、地震学者の今村明恒博士によって「白鳳大地震」と名付けられており、日本の地震史上、最初に記録された海溝型巨大地震と位置付けられてきた。
ところで、この大地震に関する『日本書紀』の記述は、土佐を中心とした四国だけの災害に触れている。このため、南海トラフに沿う3つの震源域(東海・東南海・南海)の西端にあたる南海地震の最古の記録と評価されてきた。
しかし近年、日本各地で進められてきた過去の津波堆積物の調査から、さらに東に当たる三重県の志摩半島や静岡県磐田市を流れる太田川の流域で、7世紀後半とみられる津波堆積物が発見された。白鳳大地震の発生は西暦684年だから、それらの堆積物は、白鳳大地震によるものと推定された。
したがって、『日本書紀』に記された白鳳大地震は、南海トラフに沿う3つの震源域がほぼ同時に活動した、いわゆる3連動地震だった可能性が高いと判断されたのである。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明
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