【国土を脅かす地震と噴火】7 古記録にみる貞観地震 堆積物で類似性明らかに/伊藤 和明

2018.02.26 【労働新聞】
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海岸から数十里離れた場所まで
イラスト 吉川 泰生

 東北地方の三陸沿岸は、太古から繰り返し大津波の洗礼を受けてきた。その最古の記録が、六国史の1つで、平安時代の歴史書として知られる『日本三代実録』に載っている。

 「貞観地震」と呼ばれている。その内容が、大津波によって仙台平野が洗いつくされたという2011年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」の状況を彷彿とさせることから、大きな注目を集めてきた。

 貞観地震が発生したのは、清和天皇の貞観11年5月26日(869年7月13日)の夜であった。このときの災害の模様について、『日本三代実録』にどう書かれているのか、要約してみる。

 「陸奥(みちのく)の国で大地震があり、流光が昼のごとく陰映した。このとき、人びとは叫び合い、地面に伏したまま起き上がることもできないほどであった。ある者は倒れた家屋の下敷きになって圧死し、またある者は地割れに呑みこまれた。馬や牛は驚いて走り回り、互いに踏みつけ合う有様であった。城郭や倉庫、門、櫓、囲いの壁などが崩れ落ち、倒壊した。その数は、数え切れないほどである。やがて、雷鳴のような海鳴りとともに、潮が湧き上がり、激しい波と高い潮が川を遡上し、たちまち城下に達した。海岸から数十~百里の先まで、はても知れず水となり、原野も道路もすべて大海原と化してしまった。人びとは、船に乗るいとまもなく、山へ避難することもかなわず、千人ほどが溺死した。この災害により、人びとの資産も農作物も、ほとんどが失われてしまった」。

 ここでいう“城下”とは、現在の仙台平野にあって、当時の陸奥の国の国府があった多賀城を指していると考えられている。つまり、仙台平野が大海原になるほどの大津波が襲来したことを、『日本三代実録』の記述から読み取ることができるのである。

 近年、東北大学や産業技術総合研究所によって行われた発掘調査から、過去の津波が運んできたとみられる厚さ数センチの砂の層が、石巻平野や仙台平野、さらには福島県相馬平野にまで広く分布していることが明らかになった。しかも砂の層は、平野の奥深く、現在の海岸線から4キロ以上も内陸に堆積していた。

 これら砂の層は、十和田火山から噴出されたとみられる灰白色の火山灰層のすぐ下にあった。『扶桑略記』の記述から、十和田火山の大噴火は、延喜15年(西暦915年)と推定されている。したがって、砂の層が堆積したのは、915年よりも少し古い時代であったことを意味していた。

 一方、砂の層の中に含まれていた木片について、放射性炭素により測定した年代は、まさに9世紀後半、貞観の時代あたりを指していた。ゆえに、これら砂の層は、869年の貞観地震による大津波がもたらした堆積物と認定されたのである。

 このような事実から、貞観の大津波は、2011年東北地方太平洋沖地震による大津波に酷似していることが明らかになった。いい換えれば、東北地方太平洋沖地震は、869年貞観地震の再来であったと位置付けることができるのである。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明

この連載を見る:
平成30年2月26日第3150号7面 掲載
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