【国土を脅かす地震と噴火】8 「末の松山」と貞観地震 和歌で伝わる津波の教訓/伊藤 和明
平安の昔から、数多くの和歌に詠みこまれてきた歌枕の1つに、「末の松山」と呼ばれる名所がある。現在の宮城県多賀城市の一角にあるこの松山、実は869年に起きた貞観地震と深いかかわりがあって、災害を伝承することの大切さを今に伝えている。
「末の松山」は、多賀城市にある寶國寺という臨済宗妙心寺派の寺の裏山、というよりも高台の端に当たっていて、樹齢500年近い数本のクロマツの高木が枝を連ねている。
この「末の松山」が詠みこまれた和歌は、数多く存在するが、中でも広く知られているのは、三十六歌仙の一人であり、清少納言の父でもある清原元輔の歌であろう。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」
『後拾遺和歌集』に載るこの歌は、『小倉百人一首』に収められているので、知る人も多いと思われる。
“お互いに涙で濡れた袖をしぼりあって、あの末の松山を、波が越えることがないのと同じように、私たちの愛も決して変わることはないと約束しましたのにね”という意味で、心変わりをした相手の女性に恨みを述べている歌である。このいわば失恋した男性は、元輔自身ではなく、歌づくりに優れていた元輔が、その男性に頼まれて詠んだ代作とされている。
このほかにも、「末の松山」を詠みこんだ歌は、『拾遺和歌集』や『金葉和歌集』など、多くの和歌集に収められている。
つまり「末の松山」は、平安の昔から広く知られる名所になっていて、しかも、波が松山を越えることは、まず“あり得ない”ことであり、もし“波が越えた”なら、それは“あり得ない”事態が起きたことを意味しているものと理解できるのである。
「末の松山」を波が越えない、その波というのは、いうまでもなく“津波”を指している。その大津波をもたらした地震こそ、前回取り上げた貞観地震だったのである。
貞観の津波が「末の松山」を越えることはなかったという伝承が、松山の松の美しさとともに、京の都に伝わり、多くの和歌が生まれたものであろう。
その代表的ともいえる清原元輔の「契りきな……」の歌は、951年の作とされているので、貞観の津波から82年後のことであった。
以後多くの文人や歌人が「末の松山」を訪れており、江戸時代の元禄年間には、松尾芭蕉が、旅の途次ここを訪れて『奥の細道』に書き記している。
貞観地震による津波が越えることはなかったと伝えられてきた「末の松山」、2011年の東日本大震災のときにも、周辺の市街地は2メートル近く浸水したにもかかわらず、津波はこの松山の麓を左右に分かれて流れ、やはり「末の松山 浪越さじ」であったという。
こうしてみてくると、1100年以上も前、貞観年間からの言い伝えが、現代にも生きているということが、改めて示されたものといえよう。災害文化を、末永く伝承することの大切さを物語るエピソードである。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明