【国土を脅かす地震と噴火】12 足柄平野に大洪水 噴火はいつか必ず再開へ/伊藤 和明

2018.03.29 【労働新聞】
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溜まった砂が堤防決壊の原因に
イラスト 吉川 泰生

 1707年の宝永の大噴火は、16日間続いた後、1月1日(旧12月9日)の未明に終わった。この間、50余りの集落が、噴出物の下に埋まってしまったのである。噴火が終わって、避難先から戻ってきた人びとの前に残されていたのは、厚さ1~3メートルもの焼け砂に覆われた家や農地であった。

 蓄えてあった食料は底をついたうえ、焼け砂に埋まった農地からは、何の収穫も期待できなかった。飢民救済のため、小田原藩は、米1万俵を領内の村々に分配したが、その程度では、まさに焼け石に水であった。加えて、降り積もった焼け砂を除去するには、多大な労力と経費を必要とした。住民の自力では、土地の回復は不可能であり、餓死する者が相次いだ。

 この窮状を前にして、幕府はようやく重い腰を上げ、救済の手を差しのべる。関東郡代伊奈半左衛門忠順を現地に派遣し、復旧事業に当たらせることにした。さらに、被害の大きかった村々を公領とすることに決め、幕府の直轄として、伊奈忠順の支配下に置くことにしたのである。

 しかし、被災地復旧の任を負わされた伊奈忠順の苦労は、ひとかたならぬものであった。計画は、資金難のためにしばしば行き詰まり、焼け砂の流れこんだ河川の改修も、容易には進展しなかった。被災地の復旧が遅々として進まぬうちに、次なる2次災害が発生したのである。

 家や田畑を埋めていた焼け砂は、決められた砂捨て場にうず高く積み上げられていた。しかし、翌春になって大雨がたびたび降るようになると、砂の堆積は次第に崩れはじめ、少しずつ沢へと押し流されることになった。こうして、大量の焼け砂は、酒匂川の本流に集まり、下流へと運ばれていった。

 酒匂川の下流域に広がる足柄平野は、小田原藩の重要な穀倉地帯である。そのため、平野を水害から守るために、酒匂川の平野への出口には防水堤が築かれていた。

 ところが、上流から運ばれてきた大量の焼け砂は、この堤に遮られて溜まり始め、河床は次第に上昇していった。そこへ8月7日の午後、激しい豪雨がこの地方を襲った。酒匂川の水量は急速に増し、持ちこたえられなくなった堤は、翌日の未明ついに決壊したのである。濁流はたちまち足柄平野をなめつくしていった。

 この洪水で家も農地も失った住民は数を知れない。そのうえ、いったん洪水に洗われた平野では、その後も乱流が繰り返され、以後70年以上、足柄平野では洪水災害を受け続けた。

 このように宝永の大噴火は、降下噴出物による直接被害と飢饉の発生、さらには翌年の2次的な大水害と、広域にわたって人びとの生命財産を脅かし、火山噴火の重く長い後遺症を、まざまざとみせつけたのである。

 宝永噴火から310年余り、富士山は沈黙を続けている。しかし、歴史時代の活動を振り返れば、それは“かりそめの眠り”にすぎないことが分かる。活火山富士は、いつか必ず噴火を再開するに違いない。歴史はまさに、富士山が生きていることを証言しているのである。

筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明

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平成30年4月2日第3155号7面 掲載
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