【国土を脅かす地震と噴火】13 浅間山の天明大噴火① 焼け石飛来し一面の火災/伊藤 和明
日本の代表的な活火山である浅間山の山麓には、美しい高原が広がり、四季折々の自然のたたずまいが多くの人々を魅了している。
その浅間山が、数百年に一度という大規模な噴火を起こして麓に大災害をもたらしたのは、1783年(天明3年)のことであった。
噴火が始まったのは5月9日(旧4月9日)で、その後消長を繰り返していたが、7月下旬には本格的な活動となり、関東一円から江戸にまで火山灰を降らせた。
8月2日(旧7月5日)からは、いよいよ大噴火となり、山頂部はほとんど火に包まれ、噴煙の中に火山雷が激しく飛びかった。8月4日(旧7月7日)の午後からは、さらに激しい噴火となり、南西に20キロほど離れた望月では、降灰によって暗夜のようになり、人々は互いの顔も識別できず、外出するときは、米俵を幾つも重ねて頭にかぶり、往来したという。
このときの噴火で壊滅的な災害を被ったのは、浅間山から12キロあまり東南東に離れた軽井沢宿であった。当時、軽井沢宿は中山道の重要な宿場で、186戸の家屋が立ち並んでいたという。
噴火が最盛期を迎えた8月4日の夜には、激しい震動によって、壁や天井の羽目板が外れるほどであった。そして、突如大量の焼け石が降りはじめたのである。30センチ四方もある大石が、燃えながら飛来して、民家の屋根に落下し、たちまち一面の火災となった。大石に押し潰された家屋も多数あり、打たれて即死する者も出た。軽井沢宿186戸のうち、潰れた家屋は70戸を数えた。降り積もった焼け石や焼け砂の厚さは、2メートルにも達したという。突然襲いかかってきた異変に、宿場は大混乱となり、狼狽した人々は、先を争って逃げはじめた。
「提灯、松明にて家財を牛馬につくるあり、戸板をかつぎ、桶、摺鉢を頭に戴きて逃ぐるあり、夜着、蒲団、薄縁、笊を笠にして逃ぐるもあり、凡て男女の隔てなく、親を見失ひ、子を知らずして、只我先にと押し合ひ、揉み合ひ行く様は、実に惨乱の極みなり」(『浅間山』)
我れ先に逃げていくうちに、頭に乗せた桶に焼け石が落ち、桶の底が抜けて額に傷を負った者もあり、手にした提灯が打ち落とされて、明かりを失い、ただ手さぐりで足を運ぶ者もあった。降りしきる火山灰に視界を失い、沼や溝にはまりこむ者も続出した。こうして人々は、6~7里も離れた他村へと避難していったのである。
浅間山から130キロほど離れた江戸でも、8月3日の夜から、家々の戸障子が震え続け、4日の昼ごろから、風に乗って灰が降ってきた。
5日の朝になると、空が土色になり、正午ごろからは次第に晴れてきたが、砂や灰は降り続いた。午後2時ごろから、再び地鳴りや震動が激しくなり、夜まで続いた。2寸~1尺ぐらいの白い馬の毛のようなものが降り、中には赤いものも混じっていたという。
実はこの間に、浅間山周辺では、大規模な災害が発生していたのである。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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