【国土を脅かす地震と噴火】14 浅間山の天明大噴火② 逃げる間もなく村を襲う/伊藤 和明
軽井沢宿に焼け石が降り注いだ1783年(天明3年)8月4日、浅間山の北斜面では、特異な現象が観察された。
「七日の申の刻頃、浅間より少し押出し、なぎの原へぬつと押ひろがり、二里四方斗り押ちらし止る」
『浅間記』に記された“ぬっと押しひろがった”現象こそ、火砕流の発生と流下であった。しかし、このときの火砕流は、人家もない斜面で止まったため、災害も発生せず、ほとんどの人が気付くことはなかった。
だが、浅間山の北麓は、翌8月5日(旧7月8日)、運命の日を迎えることになる。
噴火の勢いが衰えることはなかったものの、北麓には爆発音が鳴り響くだけで、焼け砂も降ってはこなかった。誰一人、次に起こる大災害を予感する者はいなかった。
しかし午前8時ごろから、噴火は一段と激しさを増し、10時ごろには最高潮に達した。
「火炎黒煙相交錯して乱騰し、勢猛烈冲天実に数百丈。閃く電光亦凄絶の極。加ふるに岩石火玉の投下頻に、恰も群雁の舞ひちぎるるが如く、落下の音響は天を震はし地を動かし、山勢為めに一変せんとするの趣あり」(『浅間山』)
大爆発の音は、近隣諸国だけでなく、北は東北地方、西は中国地方にまで及んで、人々を驚かせた。
「八日の四つ時既に押出す浅間山煙り中に廿丈斗りの柱立たるごとくまつくろなるもの吹き出すと見るまもなく直に鎌原(かんばら)の方へぶつかへり鎌原より横へ三里余り押広がり、鎌原、小宿、大前、細久保四ヶ村一度にづつと押はらひ……」(『浅間記』)
火砕流が発生したのである。上の『浅間記』に書かれている“鎌原村にぶつかって横へ三里あまり押し広がった”のは、火砕流が山腹を高速で流下した状況を描写したものと考えられる。
このときに発生した大規模な火砕流は、浅間山の北斜面をなだれ落ち、その中に含まれていた無数の溶岩片の力で地表を掘り下げた結果、削り取られて生じた大量の土石が、岩屑なだれとなって流下した。岩屑なだれは、たちまち北麓にあった鎌原村を直撃、瞬時に村を呑みこんでしまった。
思わぬ事態に、大多数の村人は避難することもかなわず、466人が犠牲になったという。辛うじて村の一角にある観音堂の丘に駆け上がった人、あるいは、噴火の沈静化を願って祈りをささげていた人など93人だけが、一命を取りとめたのである。
このときの火砕流は、埋没した鎌原村の名をとって「鎌原火砕流」と呼ばれている。
浅間山北麓の「鬼押出溶岩」は、今は観光名所として多くの観光客を招き寄せているが、この溶岩流は、この天明大噴火の際に流出したものである。
鬼押出溶岩は、従来、天明大噴火の最終段階に山頂火口から流下したものと考えられてきた。しかし最近の調査研究で、火口から噴出した高温の火砕物が、火口周辺に急速に堆積して溶結し、溶岩と同じような運動様式で流れ出したものであることが明らかになっている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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