【国土を脅かす地震と噴火】15 浅間山の天明大噴火③ 生死を分けた35段の30秒/伊藤 和明
1783年(天明3年)8月5日に岩屑なだれが鎌原(かんばら)村を埋没し大災害をもたらした後、さしもの大噴火も沈静化に向かっていった。しかし、災害はさらに続いたのである。
浅間山の北斜面を流下した岩屑なだれは、流れ下る途中で大量の地下水や沼沢の水などを取り込んだすえ、吾妻川の渓谷に達し、大規模な泥流を発生させた。土石や流木などを交えた凄まじい流れは、吾妻川の谷を下り、流域の村々を次から次へと呑みこんでいった。
長野原では、河床から30メートルも高い段丘上にある家が流失したという。人も牛馬も家屋も濁流に乗って吾妻川を下り、利根川の本流へと入っていった。この二次的な大洪水で55の村が被災、約1200戸が流失し、流死者1600人あまりを数えた。
東京の小岩、江戸川の右岸にある善養寺の境内に1つの供養碑がある。その碑文からは、江戸川の中洲に流れついた多くの遺体を手厚く葬り、その十三回忌に建てられた供養碑であることが読み取れる。記録によれば、そのとき江戸川には、人や牛馬の遺体とともに、樹木や家の建具、家財などの破片が、一面に押し流されてきたという。
一方、岩屑なだれに埋められ、多くの住民が犠牲となった鎌原村では、九死に一生を得た男女同士が再婚し、新たな家庭を築くなどして、村の再建に尽くしたといわれる。
村ではその後、元の場所、つまり岩屑なだれの堆積物の上に、新しい集落が開かれ、現在に至っている。
93人の村人が難を逃れたという観音堂の丘は、今もそのままで、観音堂の正面には、現在15段の石段が数えられる。天明の大噴火以前には、石段はさらに下まで続いていたのだが、岩屑なだれに埋まったために、15段を地表に残すのみとなったのである。
天明の大噴火から200年近く経った1979年の夏、鎌原村の発掘調査が行われた。
その結果、堆積物の下から、当時の家屋の残骸や数々の調度品などが出土した。柱や梁の一部は黒く焼け焦げていた。これは、岩屑なだれの中に、高温の溶岩塊が多数含まれていたことを意味している。
観音堂前の石段の延長部も掘り下げられ、石段はもともと50段だったことが判明した。つまり35段分が、厚さ7~8メートルの岩屑なだれの堆積物に埋まっていたのである。
この発掘のとき、地下に続く石段の最下部から、折り重なって倒れた2体の人骨がみつかった。骨や毛髪などを分析した結果、上側は老女、下側は中年女性と鑑定された。
娘か嫁に当たる女性が、母親を背負い、迫りくる岩屑なだれの土砂から逃れようと、観音堂のある丘へと走ったのであろう。しかし、ようやく石段の下に辿り着いたとき、2人は大量の土砂に追い着かれ、呑みこまれてしまったものと思われる。あと35段、時間にしてわずか30秒前後の遅れが、2人の生死を分けたことになる。
大災害から2世紀を経て、ようやく日の目をみた2体の遺骨。まさに天明噴火の悲劇の化石なのであった。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明
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