【国土を脅かす地震と噴火】16 元禄大地震㊤ 壊滅した東海道の宿場町/伊藤 和明
18世紀の初頭は日本列島激動の時代であった。1703年元禄地震、1707年宝永地震と、わずか4年の間隔で2つの海溝型地震が発生したうえ、宝永地震の49日後には富士山が大噴火した。
その激動期の皮切りとなった元禄地震は、まさに元禄の繁栄を終わらせる超巨大地震であった。各地に伝わる災害の記録や、地形に残された証跡などから、元禄地震は明らかに相模トラフ巨大地震であり、1923年に発生した大正の関東地震の“1つ前の関東地震”と位置付けられている。広範囲にわたる大津波、房総半島南部での地盤隆起量などから、その規模は大正の関東地震より一回り大きく、最大M8.2と推定されており、震源域は房総沖の日本海溝付近にまで及んだ。
元禄地震が発生したのは、1703年12月31日(元禄16年11月23日)の未明であった。被害の状況については、『基熈(もとひろ)公記』、『甘露叢(かんろそう)』、新井白石の『折たく柴の記』、柳沢家の記録として知られる『楽只堂(らくしどう)年録』など多くの文書に詳しく記されている。『楽只堂年録』によれば、死者の数は全体で6700人、家屋の全壊と津波による流失は、合わせて2万8000軒となっている。
江戸では、本所、神田、小石川辺りを中心に、多数の家屋が倒壊し、江戸城の石垣や櫓、門も崩れ落ちた。とりわけ地盤の軟弱な北の丸から水道橋、溜池から半蔵門、かつては入江だった日比谷などで、現在の震度階でいえば震度6強~6弱の揺れに見舞われたと推定される。ただ、幸いなことに、大正の関東地震とは異なり、地震によって直接生じた火災は少なく、広範囲に燃え広がることはなかった。
元禄地震は、相模トラフを震源として発生した巨大地震だったため、被害はむしろ東海道に沿って、小田原、箱根辺りまでが著しかった。川崎、神奈川、藤沢などの宿場では、ほとんどの家屋が潰れ、平塚では、家4、5軒を残して全壊、大磯から小田原までは、家屋が1軒も残らない程の壊滅状態だったという。
小田原の被害はとくに大きく、地震の直後、12カ所から出火して町の大半が焼失、小田原城の天守閣も焼け落ちた。この天守閣は、2年後の1705年(宝永2年)に再建され、その由来を刻んだ石碑が、今も天守閣の中に保存陳列されている。
小田原から箱根に至る街道筋では、各所で大石が転落し、馬による通行ができなくなった。箱根山中でも土砂崩れが多発し、徒歩で通行するのも難渋を極めたという。いわば幹線であった東海道筋についての被害情報は、いち早く各地に伝えられた。将軍のお膝元である江戸の被害はもちろん、各宿場の被災状況は、危うく難を逃れた旅人などから口伝えに伝達されていった。したがって当時の文書には、東海道一帯の震害について、かなり詳しい記事が載っている。
片や、上総、安房、伊豆など、当時としては不便な遠隔地からの情報は遅れ、内容も大まかであった。人々が江戸から小田原にかけての災害に注目している一方、房総半島や伊豆半島東岸では大災害が発生していた。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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