【国土を脅かす地震と噴火】17 元禄大地震㊥ 房総半島に10メートル津波襲来/伊藤 和明
元禄地震は、関東地方を乗せた北米プレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでいる相模トラフにおいて、北米プレートが跳ね返り発生した巨大地震であった。大津波が発生し、房総半島から相模湾の沿岸を襲った。
相模湾では、鎌倉の被害が大きく、流死者は約600人と伝えられ、鶴岡八幡宮の二の鳥居まで海水が押し寄せてきたという。
伊豆半島の東岸も津波に洗われた。伊東では、津波が2キロあまりも川を遡上して大災害となった。波高は12メートルにも達した。伊東市内の寺に残る津波供養碑には、「当村水没男女百六十三人」と記されている。
とくに甚大な災害を蒙ったのは、房総半島の沿岸であった。九十九里浜から南へ外房の沿岸、さらには内房の富津辺りまで、5~10メートルの大津波に襲われた。
現在のJR内房線の線路際から17段の石段を上った所にある安房郡和田町真浦(もうら)の威徳院という寺では、石段の上から4段目まで津波が来たと伝えられている。津波学者の羽鳥徳太郎氏によれば、ここでの波高は10.5メートルに達しており、知られる限り、これが房総半島沿岸での最大波高であるらしい。
九十九里浜や南房総の沿岸には、各所に津波供養碑や無縁塚、千人塚などが残されていて、津波がいかに大量死を招く現象であるかを物語っている。死者は、房総半島沿岸だけでも6500人を超えるだろうといわれている。
一松(ひとつまつ)の本興寺には、人の背丈よりも高い位牌があり、裏側には津波の犠牲になった村人の戒名がびっしりと刻み込まれているのを見た記憶がある。
『白子町史』に載る『池上誠家文書』には、池上家の先祖の筆になる津波体験記が収録されている。
「サテ丑ノ刻バカリニ、大山ノ如クナル潮、上総九十九里ノ浜ニ打カカル、海ギワヨリ岡江一里計打カケ……(中略)……数千軒ノ家壊流、数万人ノ僧俗ノ男女、牛馬鶏犬マデ尽ク流溺死ス。或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コゴエ死ス、某(それがし)モ流レテ五位村十三人塚ノ杉ノ木ニ取付、既ニ冷テ死ス、夜明テ情アル者供藁火焼テ暖ルニヨツテイキイツル、希有ニシテ命計免レタリ、家財皆流失ス」
この人はいったん津波で流されたものの、杉の木に取り付いて助かり、仮死状態になっていたところを、情けある人々によって藁火で温められ、九死に一生を得た。
伊豆大島も津波に洗われた。大島北端の岡田港では、人家58戸が流失、水死者56人を数えた。大島南端の波浮港は、天然の良港として知られているが、もともとは9世紀のマグマ水蒸気噴火によって生じた火口で、そこに地下水などが溜まって火口湖を形成していた。ところが、元禄地震の大津波で海側の火口縁が決壊し、海とつながってしまった。その後、18世紀末の寛政年間に、人手で海底を掘り下げ、船の出入りができるようにしたため、波静かな港に変身したのである。
つまり波浮の良港は、皮肉なことに、9世紀に起きた火山噴火と、元禄地震による大津波という地変の恵み(?)によって誕生したといえよう。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明
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