【国土を脅かす地震と噴火】20 島原大変② 溶岩見物でお祭り騒ぎに/伊藤 和明
雲仙岳の噴火によって、溶岩が流下した穴迫谷は、急峻な谷だったので、人々が溶岩流に近寄ることは困難だった。だが、ちょうど谷を見下ろせる位置に、呂木山という小山があって、そこからは安全に溶岩流を見物することができた。
当初は、怖いもの見たさに地元の人が訪れる程度だったが、珍しい溶岩流の眺めが口伝えに広まっていくと、島原領内はもちろん、やがては近隣諸国からも大勢の人が溶岩見物に集まるようになった。老若男女を問わず、溶岩流をひと目見たさにひしめき合い、なかには、溶岩流を肴に酒盛りを始める者さえ現れた。呂木山の麓には、俄かづくりの茶店までできて、お祭りのような賑わいになった。溶岩見物のため、突然の観光地となった呂木山で、酒盛りの末にけが人まで出るに至っては、島原藩も立入り禁止のお触れを出さざるを得なくなったという。
穴迫の噴火から3週間あまり経った3月21日、穴迫溶岩の噴出地点より200メートルほど高い「蜂の窪」という所から新たな噴火が始まり、溶岩を流出し始めた。この溶岩流は、やがて穴迫溶岩と合流して、徐々に麓へと流下していく。溶岩流の先端から焼け石の崩れ落ちる音が激しく、雷鳴のとどろくようであった。そのたびに地面が揺れ、煙が立ち上って、辺りは霞がかったようになったという。
雲仙火山の溶岩は粘性が高いため、きわめてゆっくりと流下していく。1990年に始まった噴火では、91年の5月下旬、粘性の高いデイサイト質のマグマが噴出して、溶岩ドームを形成し、やがてその先端部が崩壊しては火砕流を発生させ、麓に大災害をもたらしたことは記憶に新しい。
1792年の噴火のときには、溶岩流そのものが小山のように盛り上がりながら、次第に麓へと押し出していった。溶岩流は、約2.7キロ流下し、千本木という集落から500メートルほどの所に迫ってきた。しかしそのころから噴火は下火になり、溶岩の流下も止まった。
今そこを訪れてみると、溶岩流の先端は、見上げるほどの高さにそびえており、焼山という地名が付けられている。このときの溶岩流は、1663年に流出した「古焼溶岩」に対して、「新焼溶岩」と呼ばれている。
こうした一連の火山活動に伴って、温泉が新しく湧き出したり、火山ガスを噴出する噴気孔が生じたりした。火山ガスの噴気孔は、いわゆる鳥地獄となって、野鳥をはじめ、猪や鹿、狐、兎などが倒れ死んでいるのがみられた。山の様子を見に登った人や樵夫なども、火山ガスの毒気のために息苦しくなり、気分が朦朧となったりしたという。
その火山活動も、いったんは小康状態となり、人々の間に安堵感が広がりつつあった。しかしそれも束の間、今度は島原半島の東部で地震が頻発し始めた。つまり、一連の地震・火山活動が、島原半島を西から東へと横断してきたのである。そして、突然の強い地震が発生し始めたのは4月21日(旧3月1日)のことで、島原の城下町では、様ざまな被害が生じることとなった。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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