【国土を脅かす地震と噴火】21 島原大変③ 地割れが城内を貫通する/伊藤 和明
1792年の春、前年の秋から続いてきた一連の地震活動と噴火は、その最終段階で大規模災害に発展することになる。
雲仙岳からの溶岩流出がほぼ止まった後、突然の強い地震が発生したのは、4月21日(旧3月1日)のことであった。地震は山鳴りを伴って、ひっきりなしに島原の城下町一帯を揺るがし始めた。各所で土砂崩れが起き、道路には地割れが生じ、城の石垣も崩れ、民家の壁が落ちたり、鴨居が外れたりするというような被害が相次いだ。
地震は翌日も翌々日も続いた。折から旧暦3月3日の桃の節句を楽しみにしていた子供たちにとっても、地震が起きるたびに雛壇から雛人形が転げ落ちるのでは、とても雛祭りを祝う気分にはなれなかったという。
寺の鐘撞き堂も破損したので、暫くは時の鐘も打てなくなった。そのため、城に勤務する武士が、昼夜交代の時刻を知ることができなくなってしまった。仕方なく、御蔵の前に仮の柱を立てて、時の鐘を撞いたのだが、辺り一面が草原だったために鳴り響かず、遠くまで音が届かなくて困惑したという。
絶え間なく襲う地震に恐れをなした島原の人々は、近郷近在の身寄りなどを頼って避難していった。しかし、城に仕える藩士たちの家族は、他の土地へ逃げ出すわけにもいかず、めいめい身辺の物などを携えて、城内の三の丸に集まり、大書院で夜を明かした。
地震の噂は、たちまち周辺諸国に広まった。伝え聞いた九州の諸侯からは、日夜早舟で見舞いの使者が遣わされた。しかし、島原に着いても、揺れ続ける地震のために、落ち着いてはいられない。使者が見舞いの口上を述べているさなかに、雷のような音とともに揺れ出すこともあった。なかには、御書箱を差し出した途端に大揺れがきて、返書も受け取らずに退散した者もあった。
この群発地震の間に、島原一帯では各所に地割れが生じたり、地下水の異変もみられた。島原城の西にあたる鉄砲町では、地割れが2カ所で生じ、そのうち1つは城内を貫通していた。割れ目は、地震のたびに幅を広げ、数十センチにも達した。しかも、割れ目の底はかなり深く、石などを転がし込むと、その音がしばらく聞こえていた。
また地割れの東端では、清水がとうとうと湧き出し始めた。最初の頃は水量が多く、町民も困惑したが、やがて水勢も衰え、以後は用水として重宝がられるようになったといわれる。このような地下水の異変は、各地でみられた。湧水の量が急に増えたり、あるいは半分以下に減ったり、所によっては全く止まってしまった例もある。
島原半島東部で起きたこの群発地震は、旧暦の3月1日に始まったため、「三月朔の地震」と呼ばれている。
地震が次第に治まってくると、近隣へ避難していた人々が、おいおい島原へと戻ってきた。しかし、これまでの一連の火山噴火や群発地震活動は、次に起きる大災害「島原大変」のいわば序曲に過ぎなかったのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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