【国土を脅かす地震と噴火】22 島原大変④ 夜が明けたら山は半分に/伊藤 和明
三月朔の地震から1月を経た5月21日(旧4月1日)の夜8時過ぎ、強い地震が2回島原を襲った。しかし、地震に慣れてしまった人々は、それほど驚くこともなかったらしい。このとき、百雷のとどろくような鳴動が城下町を揺るがせ、直後に大津波が襲ってきたのである。無数の家屋が倒壊あるいは流失し、阿鼻叫喚の有り様となった。そして恐怖の一夜が明けたとき、人々は変わり果てた前山(現在の眉山)の姿に驚いた。山体の半分近くが崩れ、失われていた。
雲仙眉山は、北側の七面山と南側の天狗山の2つの峰から成る。地震の衝撃により、天狗山の海に面した側が大崩壊を起こし、麓の集落を埋没させるとともに、崩壊した山の部分が岩屑なだれとなって有明海に突入し、大津波を発生させた。
このときの崩壊で生じた大量の土砂は、陸上にも海中にも多くの流れ山を生じた。現在も島原の沖合いに点在する九十九島(つくもじま)は、この大崩壊によって生まれたものである。また、崩壊土砂が陸上に堆積して造られた流れ山は、頂上からの見晴らしが良いためか、現在はその上にホテルなどの施設が建てられている。
眉山の大崩壊がどのような過程で進行したかについては、発生が暗夜だったため、観察記録がほとんどない。わずかに次のような体験談が、状況の一端を物語っている。
1つは、島原へ用事で来ていた山内源兵衛という男が、激しい地震の揺れに驚いて逃げ出したところ、後ろから真っ黒な山のようなものが飛ぶように迫ってきて、命からがら逃げおおせたという話。もう1つは、眉山の斜面にあった番小屋に、恐怖のあまり引きこもっていた菜種番の男が、地震から3、4時間後に外をみると、辺りの風景が一変しており、しかも波の音が間近に聞こえ、夜が明けてから初めて、番小屋ごと海の方へ押し出されたことを知ったという話だ。
眉山の崩壊によって有明海に発生した大津波は、たちまち島原の城下町をなめつくした。少なくとも3波の大津波が襲い、うち第2波が最も高く、波高は10メートルにも達した。城の大手門の所にまで波が押し寄せたという。
しかも津波は、有明海の沿岸一帯から天草諸島を襲い、大災害をもたらした。このいわば「島原大変」による犠牲者の数は、約1万5000人といわれている。火山活動にかかわる災害としては、日本で最大の死者を出したのである。
とりわけ、有明海を挟んで対岸に当たる肥後の災害は凄まじかった。飽田郡舟津村では、直径が5メートルもある大石が津波で流失したうえ、寺の庫裏の2階に避難していた人々までが津波に流され溺死したと伝えられる。河口に繋留されていた1600石積みの船が、堤防を乗り越え、1キロほど内陸へ打ち上げられたともいう。
肥後の沿岸だけでも、死者総数の約3分の1に当たる5000人前後が流死したとされる。そのため、この災害は「島原大変肥後迷惑」とも呼ばれ、山体崩壊による大量の岩屑なだれが、海中に突入したときの脅威を後世に伝えているのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
〈記事一覧〉 |