【国土を脅かす地震と噴火】25 安政東海地震 津波が沈めたロシア軍艦/伊藤 和明
幕末に当たる1850年代は、大きな災害をもたらす地震が相次いだ時代であった。なかでも54年には、2つの南海トラフ巨大地震が、わずか1日の間隔をおいて発生し、地震動と大津波により、太平洋側を中心に壊滅的な被害をもたらした。
54年12月23日(安政元年11月4日)の朝9時ごろ、安政東海地震(M8.4)が発生した。南海トラフに沿う3つの震源域(東海・東南海・南海)のうち、東側の2つの震源域が活動したものである。
震害は、関東から近畿にまで及び、とりわけ現在の静岡県下で被害が大きかった。袋井や掛川の宿場では、ほとんどの家屋が倒壊して、多くの死傷者が出た。袋井では住家の約9割が潰れたとされる。駿府では城の石垣が崩れ、多数の家屋が倒壊、約600戸が焼失し、200人あまりが死亡した。
安政東海地震の被害をさらに拡大したのは、沿岸一帯を襲った大津波であった。津波は房総から土佐までの太平洋岸を襲い、波高は駿河湾から遠州灘にかけての沿岸で4~7メートル、志摩半島では10メートルに達した所もあった。熊野灘に面する尾鷲では、波高が8メートルに達し、959戸のうち661戸と、7割近い家屋が流失した。死者は198人であった。長島では、約800戸のうち80戸だけが残り、23人の死者が出たという。伊豆半島では下田の被害がとくに大きく、最大7メートルの津波によって、840戸が流失、122人の死者を数えた。
このとき下田港には、ロシアの軍艦ディアナ号が停泊していた。プチャーチン提督の率いるディアナ号は、海外へ門戸を開いたばかりの日本と交渉を進めるため来ていたところ、大津波に襲われた。
ディアナ号は、60挺の大砲を備えた2000トン級の木造帆船だったが、大津波の勢いに翻弄され、錨が抜け、くるくると回転し始めた。30分間に42回転もしたという。やがてマストも折れ、舵ももぎとられてしまった。自由の利かなくなった船は、右へ左へと流され続けたのである。
大破して航行不能になったディアナ号は、この後修理のため、造船所のある伊豆半島西海岸の戸田(へだ)港へと曳航されていく。だが、ただでさえ真冬の季節風が吹きまくる駿河湾である。強風にもてあそばれ、浸水と闘いながらの航行であり、文字どおり難航をきわめた。最後には、100艘あまりの日本漁船にロープで曳かれ、戸田港をめざしたが、ついに時化のなかで沈没した。
船を失った乗組員たちは、ロシアへ帰ることができなくなった。そこで日本の船大工が集まり、彼らのため戸田の造船所で新しい帆船を建造することになった。その指揮をとったのは、伊豆韮山の代官で、大砲を製造するための反射炉を建設したことで知られる江川太郎左衛門であった。
わずか80トンという新造船は、着工からおよそ3カ月で完成し、プチャーチンらを乗せて故国へと旅立っていった。この船に「戸田号」と命名したのは、プチャーチン自身であったという。恩を受けた日本側に対する、せめてもの感謝の気持ちだったのであろう。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長
元・NHK解説委員 伊藤 和明