【国土を脅かす地震と噴火】29 飛越地震と鳶崩れ㊦ 震災により暴れ川へ急変/伊藤 和明
山地激震によって立山連峰の大鳶山・小鳶山は大崩壊を起こし、立山カルデラの中を流れる湯川の上流部を各所で堰き止め、多数の天然ダムが生じた。堰き止め部の土砂は、当然のことながら、極めて不安定な堆積物である。もしそれらが決壊すれば、下流域は土石流や洪水流に見舞われ、荒れ狂う濁流に富山平野が呑み込まれることは必至である。異変を予測した村々では、住民の避難が始まっていた。
そこへ、飛越地震から2週間後の1858年4月23日(旧3月10日)、信濃大町付近を震源とするM5.7の地震が発生した。その衝撃で真川の堰き止め部が決壊、大量の土砂や流木を交えた土石流が下流の村々に襲いかかり、大災害となった。
さらに地震発生から2カ月後の6月7日(旧4月26日)、降雨と雪どけ水により水位の上がった湯川筋の天然ダムが決壊した。大規模な土石流が発生して無数の巨石や大木を押し流し、さらなる大洪水となって常願寺川の扇状地に氾濫した。堤防が各所で破壊されたため、洪水は富山平野を洗い尽くし、多数の民家を押し流した。濁水は、とくに常願寺川の左岸一帯で荒れ狂い、水田はたちまち泥の海と化してしまった。この2回目の洪水は、1回目よりも規模が大きかったという。
2回にわたる土石流と洪水によって、1600戸余りの家屋が流失・全壊した。死者・行方不明者は160人ほどと伝えられる。富山藩は、この事態を予測し、避難を指示していたのだが、それも空しかったのである。
現在、富山平野の各所に“安政の大転石”と呼ばれる巨石が点在しており、その由来を示す説明板も添えられている。これらの巨石は、このときの大洪水によって上流から運ばれてきたものであり、最大の転石は、直径5.6メートル、推定重量400トンもあるとされる。大洪水の巨大な運搬力を物語っている。
飛越地震による大規模な土砂災害を契機に、常願寺川はすっかり暴れ川に変身してしまった。地震以前には、扇状地の扇頂に当たる上滝まで、河口から舟運があるなど安定した河川だった。しかし、地震後は、豪雨のたびに水害や土砂災害が頻発するようになったのである。しかも、災害は年を追うごとに激化し、明治時代の1871年から1912年までの42年間に40回もの洪水が発生している。
こうした災害の繰返しから、上流部で土砂を抑えない限り、常願寺川の治水は成り立たないことが認識されるに至った。
そこで1906年、富山県による砂防工事が着手され、さらに26年には、国の直轄事業として引き継がれていった。こうして、常願寺川の上流域は、日本の砂防事業発祥の地となったのである。
現在、立山カルデラ内には、約2億立方メートルの不安定な土砂が残留しており、“鳶泥”(とんびどろ)とも呼ばれている。もし2億立方メートルの土砂で富山平野を覆うと、平均2メートルの厚さで堆積することになるという。したがって、将来の災害から富山平野を守るため、砂防技術を駆使した果てしない戦いが今も続けられているのである。
筆者:NPO法人防災情報機構 会長 元NHK解説委員 伊藤 和明
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