【国土を脅かす地震と噴火】33 濃尾大地震㊤ 仙台から鹿児島まで震動/伊藤 和明
1891年(明治24年)10月28日の朝6時39分、岐阜県を中心に大地震が発生した。震源地は岐阜県中西部の根尾川上流域で、地震の規模はM8.0、北は仙台から南は鹿児島まで広範囲にわたって震動を感じた。有感半径が800キロにも及ぶ大地震であった。
「濃尾地震」と名付けられたこの地震は、日本で近代的な地震観測が始まってから、ただ1つだけ知られている内陸直下の巨大地震である。
この大地震により、美濃・尾張を中心として大災害となった。家屋の全壊は14万2177戸、死者は美濃で4889人、尾張で2331人と伝えられている。その他の地域も合わせると7273人にも上った。
都市では、名古屋市や岐阜市などが大災害に見舞われた。名古屋市では、848戸が全壊、死者190人を数えた。当時は宏壮な建物として注目を集めていた煉瓦づくりの名古屋郵便電信局が、瞬時に崩れ落ち、6人が死亡した。共和学校では校舎が倒壊して死者10人あまり、名古屋監獄でも死者12人を出した。このほか、愛知県庁、警察署、控訴院、裁判所、名古屋市役所などの建物も倒壊した。名古屋や熱田の停車場も全壊してしまった。
熱田町では、やはり煉瓦づくりの尾張紡績工場が倒壊した。早朝とはいえ、450人の女子工員が働いており、うち38人が圧死したという。
倒壊した名古屋郵便電信局も尾張紡績工場も、明治時代になってから導入が進められてきた洋風の煉瓦建築物であった。これらの建築物は、もともと地震の少ないヨーロッパから伝来したものであり、日本のような地震多発地域に適用するには、耐震上極めて問題があったといえよう。
濃尾平野では、至る所で、地盤の液状化が原因とみられる地割れや噴砂噴水などが出現した。とくに木曽・長良・揖斐の三大河川の下流域は、地盤の軟弱な沖積平野であるため、被害が大きかった。
道路や河川堤防、海岸堤防などの亀裂や陥没、崩壊による被害も著しく、また橋梁の破壊や落橋などにより、交通が途絶した。長良川にかかる東海道線の鉄橋も、5スパンのうち3スパンが落下した。
岐阜市の状況は、さらに悲惨なものであった。地震の直後、市内の各所から出火したが、市民はただ強烈な地震動から身を避けることに精一杯で、初期消火を試みる者などいなかったという。
そのうえ岐阜市では、午後2時頃から強い北西の風が吹き始めて火勢が増し、夜8時頃には市内一面の大火災となった。初めのうちは家財や荷物を持って避難していた人々も、火勢に追われて荷物を捨てざるを得なくなり、命からがら逃げ延びるありさまであった。岐阜市の火災が鎮火したのは、翌日の午前11時頃であったという。
大垣町(現・大垣市)の被害も大きく、全壊家屋3356戸、半壊家屋962戸を数え、全半壊家屋を合わせると、全戸数の93%以上に達した。家屋の倒壊による死者は2000人あまり、町内各所からの出火により多くの焼死者が出たといわれる。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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