【国土を脅かす地震と噴火】34 濃尾大地震㊦ 発生の74年後に後遺症が/伊藤 和明
濃尾地震は、北西~南東の向きに走る大きな断層帯で発生した内陸直下の巨大地震であった。断層帯の活動した範囲は、延長約80キロにわたっている。
震源地の根尾谷を中心にして、著しい地表地震断層が出現した。とくに水鳥(みどり)村では、上下変位5~6メートル(北東側が隆起)、水平変位2~4メートルの左横ずれ断層を生じた。
この断層崖は「根尾谷断層」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。現在も国道沿いで観察することができ、代表的な地震断層として、その写真が地震関係の書物や地学の教科書などに掲載されている。また、根尾谷の現地には「地震断層観察館」が建てられている。地下には、掘り下げられた断層の断面が保存されており、断層の姿を鮮明に観察することができる。
濃尾地震が発生したとき、断層の真上にあった根尾村では、ほとんどの人家が倒壊するとともに、左右の山の斜面が至る所で崩壊を起こし、山容は一変してしまった。田畑は位置を変え、橋も道路も土砂に埋まって、原形をとどめないありさまとなった。
このように、濃尾地震では大規模かつ広域にわたる山地災害が発生したのである。
根尾川は、崩壊した大量の土砂によって堰き止められ、流域の8カ所で天然ダムが形成された。このうち最大のものは、幹線道路を遮断したため、以後大正時代まで、船を使って交通の便を計らねばならなかったという。
しかも山間部には、長期にわたる後遺症が残されることになった。激しい地震動によって、山には多くの亀裂が入るなど地盤が脆弱化した結果、大雨が降るたびに新たな土砂崩れが次々と発生するに至ったのである。根尾谷では、地震から41日後の12月8日、大雨によって土石流が発生し、人家9戸を埋没した。
さらに、地震から4年を経た1895年(明治28年)、7月29~30日にかけて豪雨が降り、その後やや小降りになったものの、8月6日まで降雨が続いた。そのさなかの8月5日、揖斐川の支流、坂内川の右岸に当たるナンノ坂で、2回にわたり大崩壊が発生した。崩壊土砂量は153万立方メートルと推定されている。この崩壊によって民家4戸が押し流され、4人が犠牲になった。
また、大量の土砂が坂内川を堰き止めたため、谷に沿って、長さ約1500メートル、幅が最大で100メートルを超える天然ダムを生じた。崩壊した土砂による自然堰堤の高さは40メートルほどに達したという。さらに、大崩壊から6日後の8月11日、この自然堰堤は決壊し、下流の村々を大洪水が襲い、23戸が流出したのである。
災害はまだ続く。大地震から74年も過ぎた1965年(昭和40年)9月、台風24号に刺激された秋雨前線豪雨によって、根尾白谷や徳山白谷で大崩壊が発生した。これも、濃尾地震の長期的な影響と考えられている。
これらの事例は、ひとたび山地が激震に見舞われると、地盤の弱体化による後遺症がいかに継続するかを物語っているといえよう。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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