【国土を脅かす地震と噴火】41 桜島の大正大噴火㊥ 溶岩流出により陸続きに/伊藤 和明
強烈な火山性地震に見舞われた鹿児島市では、多くの家屋が倒壊したうえ、土砂崩れや無数の地割れが発生した。城山よりも東の海岸沿いの地域はとくに被害が大きかった。家屋や煙突が倒れ、屋根瓦が飛散する一方で、桜島の噴火による轟音が響きわたり、市民は恐怖のあまり、ただ狼狽するばかりだったという。
この地震による全壊家屋は、鹿児島市で39棟だった。鹿児島市と周辺を合わせた死者は29人を数えた。死者のなかには、郊外へ避難する途中で崖崩れに遭い死亡した9人が含まれている。また、この地震に伴い、小規模ながら津波が発生し、港に係留されていた小型の船が破損した。
激しい噴火活動は、翌1月13日の夜まで約1日半続き、この日の午後8時過ぎには、西側の火口付近で火砕流を伴う噴火が発生している。海岸に連なる家屋が、高温の火砕流で焼失した。
この火砕流噴火を境にして、西側山腹と東側山腹にそれぞれ開いた火口から、溶岩の流出が始まった。西側山腹から流出した溶岩は、1月15日の夕方には海岸線にまで達し、2~3日後には、500メートルほど沖合いにあった鳥島を埋没してしまった。
一方、東側の火口から流下した大量の溶岩は、黒神や瀬戸の集落を埋没し、さらに桜島と大隅半島とを隔てていた瀬戸海峡を埋め立て、1月30日ごろには、桜島と半島とを陸続きにしてしまった。
西側山腹での活動はほぼ2カ月で終了したが、東側山腹では、翌1915年の春まで活動が断続的に続いたのである。
このように、桜島の大正大噴火は、大量の溶岩流出に注目が集まっているが、一方では火山灰の降灰量も膨大であった。真冬だったことから、吹き寄せる北西の季節風に乗って、火山灰が大隅半島方面に降り注ぎ、厚く堆積した。牛根村(現・垂水市)では、灰の厚さが数十センチにも達し、その後の大雨による土石流発生の原因となった。火山灰は桜島から1000キロ以上も離れた小笠原諸島にも達しただけでなく、さらには偏西風に乗って、遠くカムチャツカ半島にまで到達したといわれる。
また、大噴火とともに噴出した大量の軽石が海面に浮遊し、海岸から数キロの沖合いまで、見渡す限り海上は軽石に閉ざされてしまった。多くの船が航行の自由を失って立ち往生したという。
一連の噴火を通じて、噴出した溶岩や降下噴出物の総量は、約2.2立方キロと推定されている。この量は、1990~95年の雲仙普賢岳噴火による噴出物量の約10倍に相当し、富士山の貞観噴火(864年)と宝永噴火(1707年)とを合わせた量に匹敵するという。
一般に火山の大噴火が起きると、周辺地域では、地盤の変動が発生する。桜島では、大正の大噴火の際、大量のマグマを放出したため、桜島および鹿児島湾北部の地盤は、数十センチから最大2.6メートルも沈下した。そのため、鹿児島港では、噴火の開始から1カ月経っても、潮位が40~50センチ上昇したことが確認されている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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