【国土を脅かす地震と噴火】42 桜島の大正大噴火㊦ 測候所を信じ対応に遅れ/伊藤 和明
桜島では、1914年の大噴火そのものによる死者・行方不明者は30人であった。巨大噴火だったわりには、人的被害は比較的少なかったといえよう。これは、大噴火の前に発生した様ざまな異常現象を目の当たりにして、多くの島民がいち早く避難したことにもよる。おそらく、130年以上前に起きた安永大噴火の教訓が、人々の間に伝承されていたためと思われる。
死者30人のうち20人は、対岸まで泳ぎ着こうとして、冷たい冬の海で溺死した人たちであった。
一方、避難が遅れて被災した島民は、鹿児島測候所の見解を信じて島に残っていた、主に知識階級の人々であった。1月12日に大噴火が発生する前、異常現象が多発しているなかで、東桜島村長・川上福次郎は、鹿児島測候所に何回も問い合わせたのだが、そのたびに測候所からの回答は、「桜島ニハ噴火ナシ」ということであった。
当時の測候所には、旧式の地震計が1基あっただけで、地震や火山の専門家もいなかった。日本の火山学そのものも、まだ貧弱な時代であった。
当時の鹿児島測候所長・鹿角義介は、翌月発行の『気象集誌』に次のような報告を載せている。
「一月十一日午後八時ごろ、東桜島村長に地震に伴う異変の有無を電話で聞いたところ、地震が強く、かつ多いほかは何等の現象なしとのこと。私は、火山的地震であることは認めたが、桜島火山に異変がおこるかどうかは科学的には分からぬが、恐らくこのようなことはないだろうと村長に答えた」。
測候所が最後まで「桜島に噴火の恐れなし」といい続けたため、県庁や警察など行政の対応が遅れた。災害の後、大噴火の発生を予見できなかったことに対して社会の不満が爆発し、測候所は激しい非難を浴びたのである。
今、鹿児島県内には、桜島の大正大噴火にかかわる記念碑が、50基ほど確認されている。なかでも注目を浴びているのは、東桜島小学校の校庭に建てられた「桜島爆発記念碑」であろう。高さ2.5メートルほどのこの石碑は、大噴火から10年後の1924年(大正13年)、川上村長の後任に当たる野添八百蔵により建立された。
測候所の回答を信じ、住民に「避難するな」と呼びかけていた川上は、その無念の思いから、「住民は、桜島の異変を知ったなら、測候所を信頼せずに直ちに避難せよ」という趣旨の記念碑を建立することを念願していた。しかし川上は、その思いを果たせずに死去したため、後任の野添がこの記念碑を建立したのである。石碑の裏に記された碑文の後段には、次のような記述がある。
「――本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ、住民ハ理論ニ信頼セス、異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覺悟ナカルヘカラス、茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス 大正十三年 東櫻島村」
「住民ハ理論ニ信頼セス」と記されていることから、この石碑は、いわば「科学不信の碑」としても知られている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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