【国土を脅かす地震と噴火】44 関東大震災② 焼死が犠牲者の9割以上/伊藤 和明
1923年の関東地震によって震度6の激震となった地域は、伊豆半島から神奈川県、山梨県の一部、東京府、房総半島にまで及んだ。
震源に近い小田原や平塚などでは、激しい揺れによって多数の建物が倒壊した。小田原城の石垣も崩れ、箱根でも860戸あまりが倒壊、旅館が谷底に落ちて粉々に砕けてしまったという。鎌倉では、長谷の大仏が40センチほど前にせり出したうえ、約30センチ沈下した。房総半島南部の館山では、1700戸あった家屋のうち9割以上が倒壊した。
東京や横浜では、無数の木造家屋とともに煉瓦造りや石造りのビルも倒壊した。とくに横浜では、官庁や裁判所などのほか、ホテルも倒壊し、宿泊していた外国人が圧死したといわれる。東京では、浅草の象徴でもあった凌雲閣、通称“十二階”の崩壊が有名である。12階建て、高さ52メートルだったこのビルは、8階から上が折れるように崩れ落ちてしまった。家屋の全壊数は、東京府で2万戸あまり、神奈川県下では約6万3000戸に達している。
災害の規模をさらに拡大したのは、東京の下町や横浜の市街地をなめつくした広域火災である。犠牲者の9割以上が焼死者であった。
関東地震の発生した日は土曜日であった。いわゆる“半ドン”で、会社勤めの人は帰り支度をしていたし、二学期の始業式を終えた小学生たちも大方は帰宅していた。地震の発生が正午直前だったため、多くの家庭では、かまどや七輪に火を起こして昼食の準備にとりかかっていた。飲食店でも、来客に備えて火を使い始めていた。
そこへ激震が襲いかかってきたのである。狼狽した人々は、火を消す暇もなく、逃げ出すのが精一杯であった。倒壊した家では、建材や家具が七輪などの上に落下し、火災が発生した。天ぷら油が鍋からこぼれて引火した例も少なくない。学校の実験室や薬局、化学工場などでは、薬品類が棚から落ちて出火した。
東京市内15区だけでも、130カ所あまりから出火した。なかでも、とりわけ浅草、下谷、本所、深川など下町各区からの出火がめだっている。
気象の運も悪かった。この日は、早朝に能登半島を通過した台風が、日本海沿岸から東北地方の南部を横断し、太平洋に抜けようとしていた。それに向かって強い南風が吹き付けており、東京周辺では風速10メートル以上にも達していたという。
130カ所あまりの出火点のうち、半分近くは、消防関係者や市民の手によって消し止められた。しかし、残りは折からの強風に煽られ、たちまち燃え広がっていった。
しかも、火災現場からの飛び火が次々と新たな出火を招き、やがて延焼火災は、巨大な火の帯となって移動し始めた。木造家屋の密集地域だっただけに火の回りが早く、町から町へと猛火に包まれていく結果となった。
そのうえ、ほとんどの水道管が地震で破壊されていた。消火手段が失われたかたちとなり、手の下しようのない状況のなか、ただ燃え広がるに任せるしかなかったのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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