【国土を脅かす地震と噴火】45 関東大震災③ 馬車も飛ばした火災旋風/伊藤 和明
東京では、火の帯が次から次へと合流を重ね、下町一帯をなめつくしていった。その後の調査から、この時の延焼速度は、毎時18~820メートルに達していたという。
猛火に追われた人々は、道路をいっぱいに埋めて避難を始めた。しかし、後ろから迫る火に焼かれ、あるいは持ち出した大量の荷物によって道を塞がれて焼死する者もあった。
さらに避難民の行く手を阻んだのは、隅田川など多くの河川であった。隅田川では、両国橋と新大橋を除き、橋はすべて焼け落ちた。逃げ場を失った人々は大混乱となり、川に飛び込んで溺死した者も少なくなかった。
川の両側が火の海となった永代橋では、橋の両端から押し寄せた人々が中央でひしめき合っているうちに橋に火が付いたため、みな水中に飛び込み、多数が溺死したという。永代橋は、夜9時ごろには焼け落ちてしまった。こうして隅田川など東京市内の河川では、無数の溺死体が水面を覆う結果となったのである。
この地震で最も悲惨な出来事とされているのは、東京本所の被服厰跡での大惨事である。ここは、かつての陸軍省被服厰の跡地が東京市に払い下げられた広場で、約6万8000平方メートルという広大な敷地であった。当然、人々はここを絶好の広域避難場所と考え、地震直後から続々と広場へ集まってきた。
集まった人々は、はじめのうちは、広い敷地に避難できた安心感からか、談笑しながら握り飯を頬張るなどしていた。しかし、時間とともに群集は増え続け、やがて広場は人と荷物で身動きもとれないほどになった。
そこへ周辺の火災現場から火の粉が降りかかってきたのである。家財や荷物が燃え始めると、広場はたちまち大混乱に陥った。次々と人が倒れていく現場へ、追い打ちをかけるように恐怖の火災旋風が襲いかかってきた。火災による高熱の空気を含んだ、いわば“熱風竜巻”である。
人も家財も旋風に巻き上げられ、荷物を積んだ馬車が馬ごと舞い上がったともいわれる。空に巻き上げられた人々が一団となって落下し、そこに火が回ってみな焼死した例もあった。
このときの火災旋風は、各所で発生した数個の旋風が合体し、大旋風となって襲いかかってきたことが災害後の調査で明らかになっている。被服厰跡での死者は、約3万8000人といわれ、大震災全体の犠牲者の3分の1以上がここで命を落としたことになる。
東京の大火災が完全に鎮火したのは、地震から2日後の9月3日午前10時ごろであった。統計によると、東京での全壊家屋は2万戸あまり、焼失が約37万8000戸、焼失面積は3830ヘクタールに達した。当時の東京市の64%が焦土と化してしまったのである。
横浜でも大規模火災によって市内一面が焼野原となった。猛火に追われた人々が岸壁から海に飛び込み、港には多数の溺死体が浮いていたという。神奈川県下では、家屋の全壊は約6万3000戸、焼失は6万8000戸あまり、千葉県下では、全壊3万1000戸あまりとされている。
筆者:元・NHK解説委員 NPO法人 防災情報機構 会長 伊藤 和明
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