【国土を脅かす地震と噴火】47 十勝岳噴火㊤ 泥流が温泉に襲いかかる/伊藤 和明
北海道のほぼ中央に位置する十勝岳は、道内の活火山のなかでも、噴火とともに大災害を引き起こす火山の1つである。
とりわけ1926年(大正15年)の大噴火の際に発生した大規模泥流は、麓の村々に悲惨な災害をもたらした。死者144人というのは、大正以後の日本列島では、最大の犠牲者を出した火山災害である。
この噴火に先立つ30年あまり、十勝岳は比較的静穏な時期が続いていた。火口周辺では鉱業所による硫黄の採取が始められており、生産量は年間1500~2000トンにも達したという。
十勝岳の噴気活動が再び激しくなったのは、1923年ごろからである。この年の6月、中央火口丘の南側にある湯沼に、溶融した硫黄の沼が出現した。このころから、硫黄の生産量が増加した。
1925年12月23日、中央火口丘の山頂火口が活動を始め、火口内に直径20×30メートル、深さ20メートルほどの火孔を生じた。この新しい火孔は「大噴(おおぶき)」と呼ばれた。1926年2月中旬になると、大量の砂礫を飛ばし始め、4月5日と6日には、周辺に火山灰を降らせた。4月中旬には、火口から火柱が噴き上がる様子がみられるようになった。5月に入ると、大噴からの噴煙量が増し、火柱はますます高く、大噴の隣に新しい火孔を生じた。
5月13日と14日には、鳴動と噴煙が一層激しくなった。山麓ではしばしば地震を感じたため、人々は不安な一夜を過ごしたという。15日の午後から活動は間欠的となり、16日と17日には鳴動は衰えたが、噴煙が激しく上昇した。
5月22日になると、十勝岳は鳴動を再開、西麓の上富良野村(現・上富良野町)でも、時折ドーンという音とともに家々がユラユラと揺れた。この日も火口近くの硫黄鉱山では作業が続けられていたが、大噴から噴石が飛んできたため、鉱夫は一時的に避難した。
そして5月24日の朝を迎える。前夜来の雨が一層強くなるなか、元山事務所から4人の巡視が登山、大噴から噴石が盛んに飛んでいるのを目撃した。だが、そのほかには異常もなく、午前9時に帰着している。正午過ぎの12時11分、元山事務所では、突然の爆発音とともに、岩の崩れる遠雷のような響きが5、6秒聞こえた。
このときの爆発では、小規模な泥流が発生して丸谷温泉を襲い、さらに畠山温泉(現在の白金温泉付近)の風呂場を破壊し、宿の前の橋を流失させた。午後2時ごろにも小規模の鳴動と噴火があり、泥水が美瑛川と富良野川を濁らせたという。
そして、最初の爆発から4時間あまりを経た午後4時17分過ぎ、2回目の大爆発が発生したのである。大規模な水蒸気噴火であった。
このとき、火口の西約3キロにあった吹上温泉では、遠雷のような響きとともに、障子などが振動して黒煙の噴き上がるのが目撃されている。
この大爆発によって、中央火口丘の山体のほぼ半分が崩壊した。崩壊物は高温の岩なだれとなって、十勝岳の北西斜面を流下したのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
〈記事一覧〉 |