【国土を脅かす地震と噴火】50 北丹後地震㊦ 近代的観測研究の扉開く/伊藤 和明
1927年の北丹後地震で大災害となった峰山町や網野町などは、丹後ちりめんの産地として知られていた。だが、地震で多くの工場が倒壊し、原料となる生糸が焼失したため、生産不能に陥り、経済的にも大きな打撃を蒙る結果となった。
この地震による被害は広範囲に及び、震源から150キロ以上も離れた鳥取県の米子でも、家屋2戸が倒壊した。淡路島でも土塀が崩れ、大阪市内でも、地割れから泥水が噴き出し、家屋に浸水被害が生じたという。
大災害の後、家を失った被災者は、厳寒のなか、屋外に投げ出されることになった。地震翌日の惨状を、『峰山町大震災誌』は次のように記している。
「哭泣(こっきゅう)の声各所に起こり、且つ肌は震ひ、食するに糧なく、午後四時頃には雨をも交へ、極度の疲労を感ずるに至りて、各所の森林中の集団は、雪中に卒倒するもの多数を生ずるに至る」。
被災者は衣食住すべてを失い、ただ被災地を彷徨するのみであったと、この震災誌には書かれているのである。
北丹後地震では、2つの地震断層が地表に出現した。郷村(ごうむら)断層と山田断層である。しかも、これら2つの断層は、互いに直交する“共軛(きょうやく)断層”であった。
郷村断層は、北北西から南南東に延びる長さ18キロの部分が動き、西側が最大80センチ 隆起し、水平には最大で2.7メートルの左横ずれを生じた。添付した写真は、地理学者の多田文男氏が当時撮影した郷村断層である。水田の中を走っていた道路が、左横ずれに食い違っていることが分かる。山田断層は、これとは直角に走る長さ約7キロの断層で、北側が最大約70センチ隆起し、右横ずれの変位が最大80センチに達した。
このような断層活動が起きたため、ほぼ断層に沿って分布していた町村は激しい揺れに見舞われ、大災害となったのである。郷村断層のずれた跡は、現在3カ所で保存されている。多田氏が撮影した道路のずれは、その後S字型につなぎ復旧された。現在は傍らの小学校の前に記念の石柱が建てられており、遺構として、国の天然記念物に指定されている。
ところで、日本の活断層分布図をみると、中部地方から近畿地方にかけて活断層が密集していることが分かる。歴史的にも、地表に地震断層が出現するような地震は、圧倒的に中部から近畿に多い。このような内陸直下の地震は、震源が浅いため、地表は激甚な揺れに見舞われて大災害となるのである。
北丹後地震は、関東大地震から2年後の1925年、東京帝国大学に地震研究所が開設されてから初めて起きた大地震であった。そのため、余震分布や地殻変動、断層の調査など、様ざまな調査研究が積極的に行われた。調査の結果、たとえば本震が発生する約2時間半前、三津、砂方などの沿岸部が、1.2メートルほど隆起していたことも明らかになった。大地震の前兆現象だったとみることができよう。
その意味でも、北丹後地震は、まさに日本における近代的な地震観測研究の扉を開いた地震だったと位置付けることができるのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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