【国土を脅かす地震と噴火】51 北伊豆地震㊤ 10カ月に亘る前震活動が/伊藤 和明
1930年(昭和5年)11月26日の未明4時2分頃、伊豆半島北部を中心に激震が襲った。「北伊豆地震」と名付けられたこの地震は、丹那断層の活動による内陸直下地震で、規模はM7.3、深さは約2キロという震源の浅い地震であった。
被害は、震度6を記録した伊豆半島北部から箱根にかけて大きく、全壊家屋2165戸、死者271人を出している。
この地震は、顕著な前震活動を伴った地震として知られている。この年の2~5月にかけて、伊豆半島東部の伊東市沖で群発地震が続いた。2月半ば頃に始まった地震活動は、3月に入ると活発化し、3月20日には伊東で震度5の揺れとなる地震が発生した。
4月に入ると地震の数はいったん減少したが、5月の初めから再び活発になり、5月9日には1日に100回以上の揺れを感じるほどであった。しかし、それ以後は地震活動も次第に衰え、6月末にはいったん終息した。
ところが11月に入ると、7日に三島で無感の地震が2回起き、11日から数が増え始め、13日には有感地震も交じるようになり、20日頃からは連日200回を超えるようになった。11月25日の夕方にはM5.0の地震が発生、強い揺れに驚いた人々が戸外に飛び出すほどであった。M7.3の本震が発生したのは、その翌朝である。
当時の静岡県函南村が編纂した『函南村震災誌』の記事を要約すれば、地震発生時の模様について、次のように記されている。
「上下左右に激しい地震動が20秒あまり続き、家々は算を乱して倒壊し、道路や橋梁も破壊され、火災が数カ所で発生した。暗黒のなかで阿鼻叫喚のありさまとなり、交通も通信も途絶してしまった。夜が明けたものの、朝食を摂るすべもなく、喉の渇きを癒す水もなく、余震が頻々と続いている」
家屋の倒壊と人的被害が最大だったのは韮山村で、1276世帯のうち、家屋の全壊463戸、半壊420戸、死者76人を数えた。全半壊した家屋は、全体の7割近くに達したといわれる。
大災害となった地域は、活動した断層に沿う田代や丹那などの山間盆地と、韮山など旧狩野川沿いの軟弱な沖積地に大別される。箱根でも多数の家屋が倒壊し、箱根離宮の日本館も潰れて大屋根だけが地面を覆った。
一方では、大規模な山崩れも多発した。なかでも中狩野村佐野梶山の山腹で起きた崩壊は、長さ1.5キロにも及んで、農家3戸を埋没、家族15人と馬3頭が犠牲になった。道路や橋梁なども各所で被災し、交通網が大きな打撃を受けた。土砂崩れによる道路の寸断、路面の亀裂や陥没、橋桁の落下や破損などが至る所で発生した。
三島と修善寺を結び、伊豆半島の重要な交通機関だった駿豆線(現・伊豆箱根鉄道)の被害も大きかった。線路の湾曲や築堤の沈下などが発生し、鉄橋も破損、伊豆長岡駅の駅舎も倒壊した。
道路や鉄道、橋梁などのこのような被害は、被災地への救助・救援活動に多大な支障を来たす結果となり、復旧・復興の遅れを招いたのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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