【国土を脅かす地震と噴火】53 鳥取市を襲った大地震 戦時下で復興が進まず/伊藤 和明
1943年(昭和18年)9月10日午後5時37分、鳥取市を大地震が襲い、壊滅的な災害をもたらした。規模はM7.2、典型的な内陸直下の地震であった。
この地震は、鳥取平野の真下で鹿野断層と吉岡断層という2つの活断層が活動して発生したもので、両断層とも地表に地震断層が出現した。その長さは、鹿野断層で約8キロ、吉岡断層で約4.5キロに達している。このように、地震断層が地表に現れるような地震は、震源が極めて浅いため、地表は激甚な揺れに見舞われることになる。
被災地全体で、家屋の全壊7485戸、半壊6158戸、全焼251戸を数え、死者は1083人に達した。このうち、被害の最も大きかった鳥取市が、全体の約80%を占めている。地震と同時に市内の12カ所から出火、その後さらに4カ所からも出火し大火災となった。
このように広域的な火災になったのは、地震の発生が夕食の準備をする時間帯に重なったことと、風呂場から出火して燃え広がったことからである。当時のことだから、炊事用の火は、七輪の炭火や竈の薪によるものがほとんどで、突然の激しい揺れに、火の始末をする余裕などなかったのである。
道路には、倒れた建物や電柱などが覆いかぶさり、消防車の通行を妨げた。水道管も各地で破裂したため、消火用の水を得ることができず、消防機能が全く失われてしまったのである。
こうして拡大した火災は、地震の翌々日、9月12日の午前5時頃になってようやく鎮火した。ほぼ36時間燃え続けたことになる。
鳥取市内の建物は、耐震性のある鉄筋コンクリート造りの建物を除いて、ほぼ全滅状態であった。この地域の建物は、冬の積雪に耐える工夫はなされていたものの、地震への配慮はほとんどなされていなかったためである。商店などは、店を広く使おうとして1階部分の柱を少なくしていたから、たちまち倒壊するという憂き目にあった。また、城下町だったため、江戸時代以来の老朽化した家屋も多く、たびたびの水害にあって、土台の朽ちている家さえあった。このような建築物の構造が、大半の家屋の倒壊と火災の発生を招いたことになる。
鳥取地震の起きた1943年9月といえば、太平洋戦争の最中だったため、報道管制も厳しく、新聞もラジオも震災の状況を詳しく伝えることは禁じられた。現実に震災の翌日、武島一義鳥取県知事によって、次のような告知文が配布されている。
「被害は鳥取市が最もひどく、目下県内各地をはじめとして隣接の府県から、医療・食糧・経済資材などの救援がなされつつある。市民は冷静沈着に行動し、いたずらに憶測でデマを流すことなく、外敵のスパイに利用されることのないよう望むものである」
地震から13日後の9月23日、「鳥取県震災復興本部」が設置され、復旧と復興事業が進められることになった。しかし、戦時下で資材も労働力も不足し、復興事業がほとんど進まないまま、2年後の終戦を迎えたのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明