【国土を脅かす地震と噴火】54 昭和の東南海地震㊤ 勤労動員中学生も被害に/伊藤 和明
太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)前後の5年間は、日本列島もまた大揺れの時代であった。43年9月の鳥取地震、44年12月の東南海地震、45年1月の三河地震、46年12月の南海地震、48年6月の福井地震と、いずれも1000人規模の犠牲者を出す大地震が、5年間に5つも相次いだのである。終戦前後の社会的混乱期に、日本の大地も激動期だったといえよう。
これら5つの大地震による犠牲者は、合計9700人以上に達している。なかでも東南海地震と三河地震による災害は、戦時下の、それも日本の戦局が厳しさを増していくさなかに起きた震災だったため、その実態はほとんど国民に知らされることがなかった。
東南海地震が発生したのは、44年12月7日の午後1時35分である。地震の規模はM7.9、南海トラフに沿う3つの震源域のうち、真ん中の部分、つまり遠州灘から紀伊半島南東沖にかけて、プレート境界地震が発生したのである。
被害が大きかったのは、静岡、愛知、三重、和歌山の各県で、住家の全壊1万7599戸、津波による流失3129戸、死者・行方不明者は1183人を数えた。
静岡県では、地盤の軟弱な浜名湖の周辺や、菊川・太田川の流域で多くの家屋が倒壊した。今井村(現・袋井市今井)では、336戸のうち332戸が倒壊、全壊率は95.8%に達した。山梨町(現・袋井市山梨)でも、626戸のうち244戸(39.0%)が全壊している。
愛知県では、とくに伊勢湾の北部、名古屋市から半田市にかけての港湾地帯に立地していた軍需工場が倒壊して多くの死者が出た。とりわけ悲惨だったのは、戦時中の勤労動員によって軍需工場で働かされていた中学生が多数死傷したことである。中学生も含めて約160人が、工場の下敷きになって死亡したといわれている。
これらの工場は、古い紡績工場を改造したもので、当時「零戦」と呼ばれていた戦闘機や「彩雲」と呼ばれていた偵察機などを製造していた。工場内で造られた航空機を外へ出すため、工場では壁を抜き、柱も何本か抜いていた。つまり、地震に対する配慮など全くなされていなかった。このため、たちまち倒壊してしまったのである。
東南海地震は、海溝型の巨大地震であったから、当然、大津波が発生した。津波による被害が大きかったのは、紀伊半島の南東海岸、つまり熊野灘に面した沿岸部であった。津波の波高は、三重県の尾鷲で9メートル、錦で7メートル、和歌山県の新宮でも3メートルに達した。
尾鷲には、地震から26分後に津波が襲来した。津波は港に停泊していた漁船を陸に押し上げ、家々を破壊した。津波で流失または倒壊した家屋は548戸、犠牲者96人を数えた。
津波による三重県全体の被害は、家屋の全壊および流失2740戸、死者・行方不明者は586人に達した。和歌山県下では、新宮市などで家屋の全壊と流失210戸、死者・行方不明者は50人に上っている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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