【国土を脅かす地震と噴火】55 昭和の東南海地震㊦ 知らぬは日本国民ばかり/伊藤 和明
1944年(昭和19年)12月7日の昭和の東南海地震は、大災害をもたらしたにもかかわらず、国民にほとんど知らされることはなかった。戦時下で厳しい報道管制が布かれていたためだ。「隠された大震災」といわれる所以である。
このころ、太平洋戦争における日本の戦局は悪化の一途をたどっており、すでに末期的状態を呈していた。だが、当時の軍部は、各地の戦闘で敗北したことをひた隠しにしたうえ、日本軍が大きな戦果を挙げたというような偽の情報だけを強調していた。
そのような空気のなか、「もし日本の中枢に当たる地域が大震災に見舞われたことを公表すれば、国民の戦意喪失につながる」として、真実は国民の耳目から遠ざけられてしまったのである。
東南海地震の翌日の12月8日の朝刊各紙をみると、その第1面は、軍服姿の昭和天皇の写真が大きく載せられ、周りは威勢の良い戦争記事などで飾られている。なぜ天皇の写真が1面トップを占めているのか。この12月8日は、3年前の41年に、米英に対して宣戦を布告したという開戦の詔書を戴いた日(大詔奉戴日)だったからである。
では、前日に起きた地震の記事はどこにあるのかと探してみると、たとえば朝日新聞では、社会面の下の方に「昨日の地震」と題した小さな記事があるだけで、その中身も、「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで、大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂は、はからずもここに逞しい空襲と戦う片鱗を示し、復旧に凱歌を上げた」(一部字句を改め)などと書かれている。もちろん被災地の写真などは載せられていない。当時、新聞もラジオ放送も「軍機保護法」によって厳しく規制されていて、マスメディアは、真実を伝えることなどできなかったのである。
しかし、アメリカは知っていた。東南海地震による津波は、はるばると太平洋を渡って、ハワイやアメリカ西海岸に達し、検潮儀に記録されていたのである。また、M8クラスの巨大地震ともなれば、地震の波は地球を回る。アメリカだけでなく、世界の地震観測網が日本での大地震の発生をとらえていた。現実に、ニューヨークタイムズやワシントンポストなどアメリカの新聞は、日本の中枢で大地震があったことや、軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことなどを大きく報道していた。まさに、“知らぬは日本国民ばかり”だったのである。
それかあらぬか、この後名古屋市は、追い打ちをかけられるように、たびたび空襲の洗礼を受けることになる。地震から6日後の12月13日には、80機のB29が襲来し、三菱発動機製作所などで死者330人、焼失487戸を数えたばかりか、18日には73機が襲来、三菱航空機製作所などで死者334人、焼失323戸、さらに年が明けた45年1月3日には、78機のB29が名古屋市を空襲して死者70人が出るとともに、3588戸の民家が焼失した。中京圏にとっては、まさに“泣きっ面に蜂”の戦災だったのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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