【国土を脅かす地震と噴火】56 三河地震 犠牲になった疎開児童/伊藤 和明
大災害となった1944年(昭和19年)12月の東南海地震から37日後に当たる45年1月13日の未明、3時38分に愛知県南部を震源として三河地震が発生した。深溝(ふこうず)断層の活動による地震で、規模はM6.8、地表には延長約9キロ、垂直変位が最大2メートルの地震断層が生じた。
被害は渥美湾沿岸の幡豆郡でとくに大きく、形原町(現・蒲郡市形原)などを中心に、死者2306人、家屋の全壊7221戸を数えた。東南海地震からひと月あまり、米軍機による空襲が続くなか、前月の大地震の痛手から立ち上がろうとしていた矢先の直下地震であった。
三河地震は、発生が午前3時半すぎと、ほとんどの住民が就寝中だったため、たちまち倒壊した家屋の下敷きになって圧死した人が多かった。
死者が多数出た町村では、数十人ずつまとめて集団火葬を行ったという。しかも、空襲に備えての燈火管制下であったため、空襲警報が発令されると、慌てて水をかけて火を消し、警報が解除になると再び火を付けるという作業が繰り返された。
この地震でとりわけ悲惨だったのは、名古屋市などから集団疎開をしていた多数の小学生が犠牲になったことである。大都市の空襲に備えて親元から引き離された子供たちが、食糧も乏しく、衛生状態も悪い環境の下での集団生活を強いられていたのである。
子供たちは、いくつもの寺に分かれて宿泊していた。『西尾市史』によると、当時この地域では、名古屋市の3つの国民学校から、1365人の児童を受け入れていたという。
そもそも寺院は、本堂の壁が少ないうえに瓦屋根が重く、耐震性が低い構造になっている。なかでも宿泊していた寺が倒壊して多くの死者を出したのは、大井国民学校であった。
安楽寺という寺には、3年生の男女30人程が泊まっていた。地震で本堂が倒壊したため、青年団が本堂の屋根を破って児童を次々と救出したが、8人が亡くなった。福浄寺には5年生48人が宿泊していたが、本堂が倒壊して11人が死亡した。3年生の男子29人が宿泊していた妙喜寺では、本堂も庫裏も倒壊し、先生1人と児童12人が犠牲になった。
振り返ってみれば、幼い命を奪ったのは、直接的には地震であるが、遠因はやはり戦争そのものにあったといえよう。戦争さえなければ、東南海地震での勤労動員の中学生の死も三河地震の疎開学童の悲劇も起きなかったはずである。
三河地震については、前月の東南海地震よりも、報道はさらに希薄であった。内陸直下地震であったため、強い揺れに見舞われた範囲が局所的であり、震源地から離れるにつれて揺れが急速に減退し、被災地以外では、報道がなければ地震の発生を知るよしもなかったのである。
疎開学童に多くの死者が出た現場では、駆け付けた警察官が、生き残った子供たちに向かって「お前たち、ここで見たことは見なかったことにしろ!」と命令したという。目撃した悲惨な状況を他の場所で口外するな、という意味である。まさに当時の世相を象徴する事例だったといえよう。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明