【国土を脅かす地震と噴火】57 昭和新山の誕生㊤ 4カ月間で17回の大爆発/伊藤 和明
北海道有珠山の一角をなす昭和新山とその周辺は、季節ともなれば多くの観光客で賑わいをみせる。この新山が溶岩ドームとして誕生したのは、まさに太平洋戦争の最中であった。
1943年12月28日の午後7時ごろ、有珠山の北麓一帯で地震が頻発し始めた。翌29日、地震は1日約200回を数え、人家の壁や水道管に亀裂が入るなどの被害が生じた。
年が明けると、地震の震源は次第に有珠山の東麓へと移動していき、1月6日以後は壮瞥村(現・壮瞥町)で著しい揺れを感じるようになった。
地震の頻発とともに、地盤の隆起が始まった。地表に亀裂や段差が生じ、民家、道路、鉄道線路などに被害がめだつようになった。そのころ、地盤の隆起速度は1日平均30センチにも達していた。土地の隆起で家屋が傾いたり、井戸水が涸れたりするだけでなく、川の流路が変わるなどの被害が出始めた。この隆起地帯を走っていた胆振縦貫鉄道(後の国鉄胆振線、86年に廃線)は、線路がじわじわと盛り上がり続けたため、以後たびたび線路を付け替えねばならなくなった。
44年5月に入ると、隆起の中心は、東九万坪と呼ばれる農地に移動した。麦畑に無数の亀裂が走り始め、無数の段差が付き、あたかも三角波が立ち並んだようだったという。隆起が進行するにつれ、緩やかだった斜面が、急傾斜地に変わってしまった所もあった。
このような状況が続いているさなかの6月23日朝、すでに50メートルも隆起していた麦畑の中から、突然に噴火が始まったのである。激しい水蒸気噴火で、噴煙は約1000メートルの高さに達し、火山灰が周辺に降り注いだ。周辺集落の住民は大騒ぎとなった。だが、住み慣れた土地への執着から、ほとんどの住民は、傾いたままの家に踏みとどまっていたという。
そこへ6月27日の早朝、2回目の爆発が発生、7月2日の午前零時半ごろには規模の大きな3回目の爆発が起こって噴煙が2000メートルもの高さに立ち上るとともに、噴石を半径1キロにわたって降下させた。
周辺には大量の火山灰が降り注ぎ、森林や農地を覆い尽くした。噴火地点に近いフカバ地区などの住民は、ついに家を捨てて避難する羽目になった。
7月2日からは、活動は一段と激しくなってマグマ水蒸気噴火が発生し、7月11日の噴火では、火砕サージが発生して洞爺湖岸を襲い、森林や家屋を破壊した。このような噴火活動は、この年の10月31日まで4カ月以上も続いた。その間17回の大爆発とともに7つの火口が開いて、最大のものは、直径180メートルにも達していた。
一方、土地の隆起も進行した。地下のマグマが上昇してきては、地表を押し上げていたのである。もともと海抜100メートルあまりだった畑地が、10月の下旬には250メートルほどの台地状の小山に変じていた。この小山は、やがて「屋根山」と呼ばれるようになる。
だが、もし有珠山の活動がこの段階で終わっていたなら、後に世界的な注目を集める事態にはならなかったであろう。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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