【国土を脅かす地震と噴火】58 昭和新山の誕生㊦ 民間人が貴重な観察記録/伊藤 和明
屋根山の形成後、爆発的な噴火はおさまったが、1944年の11月下旬になると、屋根山の中央部にピラミッド状の岩体が出現しているのが認められるようになった。粘性の高いマグマが、地表を突き破って屋根山の上に盛り上がり、溶岩ドームを形成し始めたのである。
45年9月20日に活動を停止したとき、溶岩ドームの頂部は、海抜406.9メートルに達していた。この溶岩ドームは、後に「昭和新山」と名付けられることになった。
昭和新山が誕生するまでの期間は、まさに戦時中であった。そのため、軍部による報道管制が厳しく、新山誕生の情報が国民に知らされることはなかった。爆発の最盛期には、警察の伊達署長名で「安心セヨ」「流言ヲ慎ムベシ」などという告示が出されたという。北海道の火山で激しい噴火が起き、新山が誕生したなどという重大な地変を、当局はひた隠しにしたかったのである。
しかし軍や警察にとって悩みの種だったのは、夜空を彩る溶岩ドームの光であった。当時、米軍機による本土空襲が活発化していて、家々の灯火管制が厳しく行われていた。にもかかわらず、夜空に赤々と輝く溶岩ドームは、敵機にとって絶好の目印になる。しかも近くには軍需工業都市の室蘭がある。溶岩ドームの光が、室蘭空襲の目印になるのではないかと軍部は恐れたのである。「洞爺湖の水を大量にかけて、火山の火を消せないか」と、軍の関係者が無理難題を地元に持ちかけたという話さえある。
このような時代であったから、北海道に新山が誕生したという事実を私たちが知り得たのは、終戦から2カ月あまり経った10月22日の新聞記事によってであった。
一方、新しく出現した溶岩ドームなどについて専門家が現地調査を実施しようにも、様ざまな困難が付きまとっていた。わずかに一部の火山学者や地元の有志によって観測・調査が行われ、多くの貴重な成果が得られている。
なかでも壮瞥(そうべつ)の郵便局長をしていた三松正夫氏は、新山誕生に至る一連の経緯を克明に記録し、のちに『昭和新山生成日記』としてまとめ出版した。満足な測量器具やフィルムなどが手に入りにくいなか、彼は新山周辺を精力的に踏査し、創意工夫をこらした方法で新山の成長を記録し続けた。絵が得意だった彼は、噴火の開始前から新山の生成に至るまで、29枚にも及ぶ詳細なスケッチを残している。
彼はまた、郵便局舎の裏庭に魚釣り用のテグスを数本張り、それを座標にして、ほぼ1月ごとに新山が成長する模様を描いた断面図を作り上げた。
この断面図は、48年にノルウェーのオスロで開かれた国際火山学会で紹介され、世界の科学者から絶賛を浴びたのである。新山成長の経緯が1枚の図面に記録された貴重な資料として、「ミマツダイヤグラム」と命名することが提唱され、万雷の拍手をもって承認されたという。このミマツダイヤグラムは、一民間人の手による重要な火山観察記録として、後世に伝えられているのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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