【国土を脅かす地震と噴火】60 福井地震㊦ 震度7を新たに設ける/伊藤 和明
1948年福井地震の災害状況を概観すると、地盤の性質によって、被害の程度に差のあることが分かる。とりわけ大きな被害となったのは、九頭竜川の下流域に当たる沖積平野である。地盤が軟弱なため、多くの建物や土木構造物に著しい被害が出た。壊滅した福井市もこの沖積平野の上に発達していた。それに引き換え、震源地の近くにあっても地盤の硬い地域では、建物の被害が比較的少なかった。
福井地震では、目にみえる地表のずれ、つまり地震断層は生じなかった。しかし、地震後に行われた精密測量の結果、福井平野の東部で、長さ25キロ以上にわたって、北北西~南南東方向の断層運動が確認された。断層は左横ずれで、東側の地塊が、西側に対して相対的に最大約70センチ隆起し、西側が南に最大約2メートルずれたことが明らかになった。この断層運動が、福井地震を引き起こしたのである。
福井地震によって大災害がもたらされたことから、気象庁はそれまで上限を6としていた震度階を改め、翌49年、その上に震度7を設定した。当時の基準としては、家屋の全壊率が30%を超えた場合に、震度7を適用するよう定めたのである。
福井地震の場合、福井平野の中部から北部にかけては、ほとんどの地域で家屋の全壊率が30%以上になっていたから、震度7に相当する激しい揺れに見舞われていたことになる。
それ以後に起きた地震で、初めて震度7が適用されたのは、福井地震から半世紀近くを経て発生した95年1月の兵庫県南部地震であった。
震災という面からみても、48年の福井地震から、阪神・淡路大震災をもたらした兵庫県南部地震までの47年間、日本では1つの都市が壊滅するような地震は発生していなかった。福井地震で3769人、兵庫県南部地震で6434人と、いずれも数千人規模の犠牲者を出したのだが、これら2つの地震に挟まれた半世紀近くは、地震動だけで1000人はおろか、100人を超える死者の出た地震は、1つも起きていなかったのである。
いわば、この47年間、日本列島は震災の面からみて比較的平穏な時代だったといえよう。その平穏の間に、日本は高度経済成長の時代を迎えることになったのである。
その結果、国土は繁栄を獲得し、都市は高層ビルや超高層ビルの建設、地下空間の開発などが進められて、立体的に過密となった。一方で、湾岸や河川の埋立てが進んで、地盤液状化の候補地を増やしている。また、都市周辺の丘陵開発によって、地震や大雨による土砂災害の危険性が高い地域に新しい住宅地が造成されてきた。このようにして、福井地震の頃にはみられなかった都市環境が構築されてきたのである。
しかし裏を返せば、都市は大地震を経験しないまま、繁栄の代償として危険を蓄積し続けてきたということができよう。そして、この間に造られた建物や土木構造物、さらには町づくりそのものがいかに脆弱なものだったかをはっきりと露呈させたのが、95年の阪神・淡路大震災だったのである。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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