【国土を脅かす地震と噴火】61 新潟地震㊤ 停電で消火装置作動せず/伊藤 和明
1964年(昭和39年)6月16日午後1時1分、新潟市など日本海沿岸を大地震が襲った。震源は新潟市から北へ50キロほど離れた粟島の南の海底下で、震源域は南北約100キロに及んでいる。地震の規模はM7.5、震源の深さは34キロであった。
新潟地震の起きた64年は、10月に東京オリンピックが開催されることになっていた。このため、例年なら秋に催される国民体育大会が、6月6日から新潟市で行われ、6月10日に閉会したばかりであった。そのわずか6日後に大地震が発生したのである。
この地震により、山形県から新潟県の日本海側では、ほとんどの地域が震度5の揺れに見舞われた。山形県鶴岡市では震度6を記録している。地震による被害は、新潟・山形・秋田各県など9県に及び、死者26人、負傷者447人、全壊家屋1960戸、半壊6640戸、全焼290戸を数えた。
鶴岡市では、老朽化した幼稚園の園舎が倒壊、園児3人が圧死した。酒田市では、中学校の校庭に生じた亀裂に、2年生の女子生徒が転落して死亡する事故も起きた。
海底下の地震だったため、津波が発生した。津波は地震発生から約15分後に沿岸部を襲い、新潟市で4メートル、村上市や佐渡島などで3メートル以上の最大波高を記録している。新潟市では、信濃川を遡上した津波により、広範囲にわたって浸水被害を生じ、なかには1カ月も冠水したままになっていた地区もあった。
震源に近い粟島は、地震とともに全体として約1メートル隆起した。隆起量は、島の東部で平均1.3メートル、西部で0.9メートルと、傾動しつつ隆起したことを示している。
新潟市の災害を特徴付けたのは、液状化現象によって建物や土木構造物に大きな被害を生じたこと、海岸地帯にある石油コンビナートで大型の石油タンク群が爆発炎上して2週間あまり燃え続けたことである。
地震の直後、昭和石油新潟製油所の原油タンクから出火した。石油工場には、タンク火災を防ぐために、自動消火剤を投入する設備があったが、地震による停電のため作動せず、初期消火が不能となって爆発炎上、たちまち他の4つのタンクに燃え移ったのである。
出火原因については、その後の検証から、長周期地震動がもたらした「スロッシング現象」によるものだったことが明らかになった。スロッシング現象とは、石油タンク内の石油が、長周期の地震動と共振して、大きく揺れる現象である。つまり、地震波の周期とタンク内の石油の固有振動周期とがほぼ一致した場合に、共振という現象を起こして大きく揺れ、タンクの浮き屋根が揺れ動いて生じた火花などから引火したと考えられている。さしものタンク火災が鎮火したのは、地震から半月を経た7月1日のことであった。
またこの地震では民家290戸が焼失している。この火災は、地震の揺れにより、地下を走る石油管が破損し、漏れ出た油が津波によって水面上を運ばれ、そこに着火して多数の民家に延焼したものと考えられている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明
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