【国土を脅かす地震と噴火】63 日本海中部地震津波 遠足の小学生13人犠牲に/伊藤 和明
1983年(昭和58年)5月26日、正午直前の11時59分、秋田県の沖合約8キロの海底で、M7.7の大地震が発生した。日本海の東縁、北米プレートとユーラシアプレートの境界で発生したこの地震は、「日本海中部地震」と名付けられている。
地震による津波が、北海道の南西岸から青森県、秋田県の沿岸を襲い、大災害をもたらした。津波の被害は、秋田県下が最大であった。地震と津波で934戸が全壊し、52戸が流失した。死者104人のうち100人が津波による犠牲者であった。
津波の高さは、青森・秋田両県の沿岸で3~7メートル、秋田県峰浜村では14メートルの遡上高を記録している。津波の第1波は、地震発生から7分後に青森県の深浦に到達、8分後に秋田県の男鹿半島沿岸に達した。気象庁仙台管区気象台が大津波警報を発表したのは、地震から15分後の12時14分であった。したがって、津波警報が発表されたときには、すでに第1波が沿岸に到達していたことになる。
この災害の後、現地を取材して驚いたのは、「日本海側には津波は来ない」という言伝えがあったことである。海底で大地震が起きれば、まずは津波を警戒しなければならないのに、かなりの人が津波の襲来を予想していなかったと思われる。
歴史を調べてみると、日本海沿岸で津波による多数の死者が出た例は、1833年(天保4年)12月7日に起きた庄内沖地震(M7.5)まで遡ることが分かった。このときは、庄内地方や能登の沿岸を大津波が襲い、地震と津波によって約100人が死亡している。以後150年もの間、犠牲者を出すような津波が、日本海沿岸では起きていなかったのである。過去の出来事が伝承されないまま、津波災害を蒙ることになったといえよう。誤った言伝えが死者数を増やした点は否定できないであろう。
地震当日は晴天で、多くの人が海岸に出ていた。このため、釣り客18人が津波に呑まれて死亡している。秋田県能代港では、火力発電所を建設するための埋立て工事現場で、作業員35人が津波の犠牲になった。
なかでも多くの涙を誘ったのは、男鹿半島の加茂青砂海岸で、遠足に来ていた小学生13人が、津波にさらわれて命を落としたことである。
秋田県の内陸部にある合川南小学校の4、5年生45人と先生2人が、マイクロバス2台に分乗して遠足に来ていた。一行はバスの中で地震の揺れを感じたのだが、目的地の海岸に着いたときには揺れも治まっていた。そこで先生も児童も、みな浜に出て弁当を広げ始めたところに大津波が襲ってきた。たちまち流された子供たちや先生を、地元の人々が船を出して懸命の救出に当たったのだが、13人だけは助からなかったのである。
この惨事の後、引率者に対して「海岸で地震を感じたなら、なぜ津波を予想しなかったのか」という厳しい批判が相次いだ。
いま、加茂青砂海岸には、大津波の犠牲になった児童たちの霊を慰めるための慰霊碑が、ひっそりと建てられている。
筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明