【国土を脅かす地震と噴火】最終回 伊豆大島噴火 日本初の全住民島外避難/伊藤 和明

2019.06.20 【労働新聞】
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カルデラ床での割れ目噴火
写真 阿部 勝征

 伊豆大島火山は、歴史時代たびたび大噴火を繰り返してきた。山頂部には、径3キロ前後のまゆ型をした凹地のカルデラがあり、中央火口丘の三原山(758メートル)がそびえている。

 1986年11月15日の午後5時25分ごろ、三原山の山頂火口から噴火が始まった。溶岩の噴泉を間欠的に噴き上げ、日が暮れると溶岩の火柱が赤々と夜空に映じ、みる人を魅了した。

 溶岩の噴出は続き、急速に火口を満たしていった。噴火開始から4日後の11月19日、山頂火口から溶岩が溢れ出し、三原山の斜面を数条の火の帯となって、カルデラ床へと流下した。

 このように三原山の山頂火口で噴火が続いている限りは、外輪山の上から安全に見物することができる。各地から多くの観光客が訪れ、連日の賑わいをみせていた。

 それも束の間、11月21日の午後4時15分、新たな噴火が突然カルデラ床で始まった。真っ黒な噴煙とともに、溶岩の噴泉が列をなして、いわば「火のカーテン」を出現させたのである。三原山の山頂火口ではなく、カルデラ床から噴火が始まるとは、専門家すら予想できない出来事であった。溶岩泉の列は、南東と北西に向かって伸び、大量の溶岩をカルデラ内に流出した。

 さらに5時46分ごろ、噴火割れ目は北側の外輪山を越えて山腹へと伸長した。割れ目に沿って次々と火口が開き、外輪山斜面に真っ赤な火柱が列をなして現れたのである。間断なく地震が襲い、震度5の強震も相次いだ。伊豆大島火山でこのような山腹割れ目噴火が発生したのは、1421年に島の南部で割れ目噴火が起きて以来565年ぶりのことであった。

 しかも外輪山斜面に開いた火口の1つから溶岩が流出し、大島最大の街である元町に迫っていった。この非常事態に直面して、大島町は午後10時50分、全島民の島外避難を決定したのである。

 1万人あまりの島民は、海上保安庁や東海汽船の客船など38隻に分乗して島を離れ本土へと向かった。この全島避難はおおむね円滑に実施された。その要因として3点、大島が離島としては地理的に便利な位置にあったこと、島という地域社会で、住民同士の連帯感が強かったこと、さらに決定的であったのは、当日は海が凪いでおり、島最大の元町港に大型船が次々と接岸できたことが挙げられる。全島避難という緊急時の危機管理が円滑に行われたのは、多分に自然条件に恵まれたためといえよう。

 1つの島の住民全てが島外に避難したのは、日本でも初めてのことであった。避難生活は約1カ月続いた。火山の状態も安定してきた12月22日、全住民の帰島が完了した。しかし、この間の島民不在がもたらした経済的損失は大きく、推定被害総額は21億円あまりに達したという。

 全島避難から30年あまり、伊豆大島火山は、いま比較的静穏な状態が続いている。島の人々は、これからも火山のもたらす多様な恵みに頼って生きていかねばならない。生活の糧としての火山と、生活を脅かす火山という両面の狭間で、火山といかに共生していくかが問われているのである。

筆者:NPO法人 防災情報機構 会長 元・NHK解説委員 伊藤 和明

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令和元年6月24日第3214号7面 掲載
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