【元漫才師の芸能界交友録】第3回 オール巨人① すべては「後輩のため」/角田 龍平
「後輩のために頑張ってきた。漫才で頑張れば良いことがあると伝えたい」。令和元年春の紫綬褒章を受章したわが師匠オール巨人は会見に詰めかけた報道陣にそう語った。
「後輩のために」巨人師匠は毎年M―1グランプリの審査員を務める。審査員も審査される過酷なM―1で、技術的な評価のみならず後輩への愛のある寸評を忘れない。その的確で温かい審査はM―1の重しになっている。ところで、巨人師匠の愛が注がれるのは、なにも漫才を頑張っている後輩だけではない。漫才で夢破れた私のような弟子たちも大切にしてくれる。
もしも「遅刻をしたら丸坊主」という就業規則を定めたら、公序良俗に反し無効となり,ブラック企業の誹りを免れないだろう。ところが、この世にはそんなブラック企業をこよなく愛する男たちもいる。兄弟子の森田兄さんは、巨人師匠の弟子時代たびたび遅刻し、丸坊主になること1年で12回。後に「結果的に普通の散髪のペースだった」と述懐している。特筆すべきは、それだけ遅刻する弟子を許す巨人師匠の包容力である。
私は18歳で弟子入りし、兄弟子・堀之内兄さんと共に付き人をしていた。芸人の弟子の重要な仕事は、本来であれば師匠の車の運転手である。しかし、私も堀之内兄さんも車の免許を持っておらず、巨人一門は師匠が運転席でハンドルを握り、堀之内兄さんが助手席に座り、私が後部座席に陣取っていた。朝早く起きて京都の実家から大阪の難波の劇場や梅田のテレビ局へ通っていた私は、後部座席で舟を漕いでは怒鳴られ肝を冷やした。かつて吉本新喜劇のスター岡八朗師匠のもとで弟子修行をしていた巨人師匠は自他ともに認める完璧な弟子だった。自分とは正反対のポンコツの弟子を取るのは、ひとえに「後輩のため」である。
「漫才で頑張れば良いことがある」と大きな背中で伝えてくれた。それなのに、私たちは漫才を辞めてしまった。大阪で芽が出なかった森田兄さんは、吉本興業を辞め、上京。コラアゲンはいごうまんと改名し、実録ノンフィクション漫談という唯一無二のジャンルで活躍中だ。年に数回、大阪で単独ライブをする時は、客席後方から豪快な笑い声が会場に響き渡る。振り返ると弟子の成長に目を細める巨人師匠がいる。
柔道整復師となった堀之内兄さんのクリニックのホームページを覗いてみると、弟子と肩を組み宣伝に一役買う巨人師匠がいる。私の法律事務所の開所パーティーの記念写真には、弁護士仲間と写真に収まる巨人師匠がいる。「漫才で夢破れても、頑張れば良いことがある」と巨人師匠は私たちに伝えてくれた。
2015年7月。オール阪神・巨人の40周年記念公演の前説を務めたのは森田兄さんだった。舞台袖で吉本の劇場スタッフに「森田は腕を上げよったで」と声をかける巨人師匠。その傍らには、仕事を休んで馳せ参じた堀之内兄さんと私が弟子七つ道具を入れたウェストポーチを腰に巻き立っていた。前説も終わり、いよいよ開演。出囃子が鳴り、センターマイクに向かって阪神師匠と2人颯爽と駆けていく巨人師匠の背中を私たちは惚れ惚れと眺めていた。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平