【元漫才師の芸能界交友録】第8回 棚橋弘至② 親友の奮闘に光明見出す/角田 龍平
弁護士になってから11年が過ぎたが、いまだに司法試験を受けていた頃の夢をよくみる。夢の中の私は、受験日がそこまで来ているのに、いたずらに焦るばかり。どうしようもない焦燥感に耐えられず目を覚ましても、しばらく夢か現か判然としない。ぼんやりと寝室の天井を眺めているうちに、その日の予定を思い出す。「10時から京都地裁で裁判期日、11時から事務所で法律相談…てことは、俺、合格してるな」。
無理もない。人生の4分の1を司法試験に費やしたのだから。日本がサッカーワールドカップに初出場したフランス大会の年に初めて受験し、日韓共催大会を経て、ドイツ大会の年に合格した。いうまでもないが、ワールドカップは4年に1度しか開催されない。
日韓共催大会が行われた2002年の5月2日。短答試験を目前に控えていたその夜、私はテレビの前に齧り付いていた。マークシート式の短答試験は5月の第2日曜日に実施される。この試験に合格した者だけが7月の論文試験に駒を進めることができる司法試験の第一関門だ。
本来なら、この時期にテレビなどみている暇はない。しかし、どうしてもみておきたい番組があった。数年ぶりにゴールデンタイムで生放送される新日本プロレスの東京ドーム大会。立命館大学法学部で席を並べた棚橋君がセミファイナルで佐々木健介とタッグを組み、世界の強豪「スタイナーブラザーズ」と対戦するのだ。
スタイナーブラザーズは、棚橋君のバックを取ると面白いようにスープレックスで後方へ投げ飛ばした。「棚橋君、頑張れ!」。何度投げられても立ち上がる姿に、司法試験に落ち続ける自分を重ね合わせた。アマチュアレスリングの実績があるわけではない。身体能力が特段優れているわけでもない。それでも棚橋君は弛まぬ努力を積み重ねて、デビューから僅か2年半で東京ドーム大会のセミファイナルを飾るレスラーになった。自分のような凡人でも愚直に努力すれば司法試験に合格できるのではないか。出口のみえない暗闇の中でもがき苦しんでいた私は一筋の光明を見出した。
ゼロ年代初頭から総合格闘技のブームが到来し、その煽りを食った新日本プロレスの会場には閑古鳥が鳴くようになっていた。疎らな客席から心ないブーイングを浴びながら、棚橋君はリングの上で戦い続けた。06年には、遂に新日本プロレスの最高峰であるIWGPヘビー級王者に輝く。同じ年、私も9回目の挑戦でようやく司法試験に合格する。戦い続ける同級生をみていると、どうしても戦いをやめるわけにはいかなかった。
08年に弁護士登録すると、翌年にはオーディションに合格し、ニッポン放送で「角田龍平のオールナイトニッポンR」が始まった。ディレクターからスペシャルウィークに呼びたいゲストを問われた私は、即答した。「新日本プロレスの棚橋選手です」。そして迎えた09年4月28日。大学卒業以来10年ぶりにニッポン放送のスタジオで棚橋君と再会を果たした瞬間、10年の労苦がすべて報われた気がした。
筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平